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楠木正成公墓塔

延元年間(約六百五十年前)
当社は後醍醐天皇の建武の中興に際して、北条氏の一族を大野郡牛ケ原に攻め滅ぼすなど、官軍との関係が密接であった。古い縁起によると楠木正成公の甥恵秀律師(えしゅうりつし)は平泉寺衆徒の一人で、延元元年(一三三六)当社三之宮に参篭していると夢に大楠公が騎馬姿で現れ、不思議に思っていたが、やがて大楠公湊川戦死を聞き知るにおよんでそれがまさに夢見の日とわかり、その場所に五重の石塔を立てて菩提を弔った、と伝える。周囲の石柵と参道は寛文八年(一六六八)越前藩主松平光通(まつだいらみつみち)公の奉納によるものである。(楠木正成公墓塔横案内板)