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2007年02月04日

謡曲『花筐』

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このところ毎日継体大王に関するシリーズが新聞トップに掲載されている。粟田部郷土史研究会会長福田氏への取材記事も目にした。長い記事の中特に記憶に残ったのは「世阿弥は何もないところからは創作をしないと言われており、『花筐』は史実もしくは伝承に基づいたものと捉えることができる。」という下り。今朝の記事では福井市郷土歴史博物館学芸員の方の「古代の文献に出てこないし内容に矛盾もある、これを史実と見るのは危険」と継体と神社の関係についての記事も目にした。朝倉遺跡資料館長の青木氏も加わっての結論は「人々が越前出身の継体大王を誇りに思い、心の豊かさではぐくんできた伝承は今後も語り継ぐべき」と結んであったように思う。


 歴史において頼りとするものは発掘と文献しかない、と言ってしまえばそれまでだが、それに言い伝えのようなものが加わるからおもしろい。特にネットをやり始めてからキーワードという観念が入り込み自然正しいとされる言葉名称を捜そうとするようになってきた。しかし調べれば調べるほど、一つの事象に対する呼び方や考え方があまりに多面的であることを思い知らされる。キーワードの登録数の多いものが正しい言葉呼び名であるという考えを聞いた時には妙に感心したものだが、今はそうとばかりも言えないように思える。

『・・・編纂のことたる全々われ一己の負うところの者にして、他と毫も交渉無きものたり、然り交渉なし、交渉なきところ自由の筆を有す、権勢何物ぞ、人の好悪するところ、また何物ぞ、筆せんと欲すれば筆す、筆せざらむと欲すれば筆せず、快なる哉・・・』昭和五年、郷土の先輩伊藤氏の巻頭序文。『今および後の郷人等の、往を知り来を察せんがために・・・すてられもせぬ物語』とある。真実とはこういった気概の中にのみあると思う。

投稿者 sensyu : 2007年02月04日 19:21

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