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2010年03月19日

吉崎御坊跡

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 長い階段を登ると吉崎御坊跡の石碑、後ろへ回ると文部省の名が。誰一人いなかったせいかも知れないが目の前のあまりに清浄な雰囲気と広さに驚く。高村光雲作、蓮如上人の銅像が中央奥に見えた。説明板によれば、あの大西郷の像などと共に光雲四大作の一であるそう。高さ5メートル、台座7メートル、越前・加賀から多くの寄付浄財によって、昭和の初め頃できた。周りに池をめぐらせてあるが、水はなく、人魚姫のような石像がその中に。後で知ったことだが、池は東西御坊を守る防火水槽の役をしていたそうで、人魚姫は、上人が救済したという大蛇の姿になった女であった。伝説「肉付の面」などといい、ここでは女性の恐ろしい姿を見るかと思えば、京都から200キロメートル以上もの距離を徒歩で運ばれる上人の絵像到着に感動し涙を流す女性達、御輿車の横でやさしそうなおばさんからその時の様子をお聞きし胸にこみ上げるものが。御坊跡には、いわれある遺跡が回りに多く配置されて、見て回ると時間を忘れる。早桜が咲き、うぐいすが鳴く、心静かでそれでいて喜び湧くひと時、「けふといふけふはじめてよし埼にまふでける。その嬉しさありがたさのあまり・・・」加賀千代女六十才の紀行文、ここに立てば、なんだかその気持ち分かるような気がする。


写真は念力門、石碑の裏に

「由緒」
「本願寺北の総門は天正十九年豊太閤の寄付なり元天狗門と名く元治元年奇跡に因りて火止めの御門とも称せらる。昭和廿四年 巨橋輪番本山に乞うて下付を浮く 斉藤、平田両氏他百余名吉崎念仏報謝団を組織して荷車十六輌を以って之を運搬せり。偏に祖恩を思ふて嶮難六十里を忍び専ら念仏を称えて風雨の九日を耐ゆ霜月の中の五日壮行を完遂せり、嗚呼偉なる哉、翌、四月竣工す。光明尊師親しく之を落す。念力門とは勝如宗主の名くる所なり。」

投稿者 sensyu : 2010年03月19日 00:30

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