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2010年05月08日

熊川宿

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 思った以上に長く続く宿場町を歩く。地元の何人もの方からいろんなお話が聞けた。山車のこと、お寺のこと、神社のこと、家並みのことなど興味が尽きない。伊藤忠商事社長の生家、旧逸見勘兵衛家とか古い建物が並ぶ。何度も火事にあっているそうで、一番古い建物で199年経つとか、それでは来年はきり良く200年になります。山車の西陣の絵布は自慢、公民館らしき中も案内していただき他の図柄も見ることができた。寺では戦国大名細川家との繋がりなどご住職から。また別の方に狭いところに神社が2つもあることをお聞きすると、詳しい方が出てこられ、それで松木神社のいわれ、義民という言葉も知った。宿場中ほどでワイワイ女性陣の焼く焼き饅頭、クリーム入りを歩きながら食べることができるのも旅ならでは。

http://www.awatabe.com/fukui/kumagawa/


松木神社

 関ヶ原の戦のあと若狭の領主となった京極高次は小浜湾に臨む雲浜の地に壮大な城を築いた。そのため領内の百姓には年貢の増徴か労役の提供など多くの負担がかけられたが、特にそれまで一俵四斗であった大豆年貢が四斗五升(または五升)入りに増額された。そして、この制度は領主が酒井忠勝になり、天守閣も造られて新しい小浜城が完成しても改められなかった。
 苦しみにあえぐ百姓たちは年貢引き下げの嘆願運動を十数年にわたって繰り返したが、小浜藩では全くこれを聞き入れなかった。捕縛投獄の抑圧にも屈せずあくまで年貢軽減を訴え続けた上中町・新道村庄屋松木庄左衛門は、慶安五年(一六五二年)五月十六日ついに日笠川原で磔の刑に処せられた。
 しかし、悲願は聞き届けられ大豆年貢の引き下げは実現した。時に庄左衛門は、二十八歳の若さであった。
 義民の遺徳を永久にあがめ謝し奉るために、昭和八年ここに松木(まつのき)神社が創建された。

投稿者 sensyu : 2010年05月08日 01:49

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