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2010年06月27日

新田義貞戦没伝説地

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 福井時代行列の新田隊はお馴染み、新田義貞の国指定史跡の名が目についたので寄ってみることに。小さい敷地であったが、お堂と石碑がいくつか。お堂の注連縄は新田氏の家紋(一引両・中黒)入りで特徴がある。お堂の中に石碑。新田義貞は明治になって正一位という最高位を授与されたが、太閤秀吉や織田信長でさえ大正になってからだったと聞く。歴史は勝者によって、という言葉は当たっている。

国指定史跡
燈明寺畷 新田義貞戦没伝説地
明暦2年(1657)農民がこの地の水田から鉄製冑を掘り出した。当時の藩軍学者伊原番右衛門がこれを暦応元年(1338)閏7月にこの付近で戦死したと伝えられている新田義貞のものであると鑑定したことからこの地が義貞戦死の地と考えられるようになった。福井藩主松平光道は万治3年(1660)この地に「暦応元年閏7月2日新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てた。以後此の地は義貞戦死の地とされ「新田塚」とも呼ばれて、今日にいたっている。福井市教育委員会
 太平記に記される新田義貞は今の群馬県で出生。後醍醐天皇に応えて鎌倉幕府討伐の挙兵。暦応元年・延元3年(1338)藤島城付近の戦闘で矢に射られ戦死。遺体は坂井市称念寺に運ばれ、この寺に墓所がある。南北朝時代は年号もそれぞれ違うという特異な時代。

 この出土したという冑はつい最近市郷土歴史博物館での展示を見たばかり、松平光道は千畳敷の墓所を作った方、この大きさの石碑ならお手のものであったことでしょう。ここは初めて訪れたが、駐車にちょっと苦労した。歴史は繋がっていると改めて認識。

投稿者 sensyu : 2010年06月27日 00:02

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