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天皇に対する心情・・・
投稿者: dekopon346 2003/ 1/ 2 11:15
メッセージ: 551 / 1810


日本人一人一人の中に存在する、「天皇」に対するイメージってなんなんでしょう?まことに難しい問題ですけど、私が感じていることを一つ。

「天皇」を、自分の側に(あくまで心情的にですが)あっさりとひきつけてしまう・・・表現しにくい・・・いわば「忠誠心の押し売り」みたいな感覚が存在しますね。国法など飛び越えた主観的な忠誠心といったものを。2・26の青年将校などもっともいい例ではないかと。
これ、日本の右翼の伝統みたいなものなんでしょうか。乃木将軍から三島までの(微笑)。

昭和天皇ご自身は、大変「遵法精神」の感覚にすぐれた方だっただけに、なにか皮肉な感じです。

どうも、トピずればっかりですね(苦笑)。そのほうが面白いとトピ主さんからおっしゃって頂き、恐縮してます。ま、新年ということで、ご勘弁を。

これは hn2602 さんの 550 に対する返信です

>天皇に対する心情・・・
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 2 11:35
メッセージ: 552 / 1810


デコさん>こんにちはいつも楽しく読んでいます(^^)

天皇のことを書く時には慎重にならざるを得ません 軽々しく
書けば 日本国また 過去の多くの私達先祖を冒涜というか
否定することにも 繋がりかねません(・・・このような感覚は
明治からの 教育の結果であるとは思いますが) 今私の前
には正月休みに読もうと図書館で借りた【天皇】に関する何冊
かの本が積まれています 少しばかり開いて解ったことは 私
が習い聞いていたこととは少し違っています

「情報天皇に達せず」とか よく聞きました しかし目の前の本
によれば 陛下はこと細かく戦争の様子を聞いておられ また
指示も出されていることが解ります 私はある意味ホットして
います なぜならこの未曾有の大戦において 神とも崇められ
た方が 私は何にも知らなかったでは寂しい限りです おそらく
ありとあらゆる できる限りを尽くされたであろうと思います
最後お亡くなりになったとき「歌舞音曲」を慎んで 大多数の国民
に見送られたことは まだ記憶に新しいことです

さて 舌足らずの私が言いたかったことは 歴史における時代
では いつの世も多くの大多数の方は農民であり極貧に苦しんで
いたのではないかと思います 歴史を語るとき 家康であり
秀吉であり 1億分の1とも言える極めて特異な少数の人物を
もてはやし?ますが その背景にいた名もない方達にスポットを
あてて考えた場合その数の多さに 偉大と言われる方達も霞んで
見えてきます やはり絶対多数の民意の流れの上に乗っているだけ
が歴史上の人達であったと思います

で その時の絶対多数の民意を鋭くキャッチしてのっかっていか
れた方達だけが 偉人と呼ばれ 英雄と呼ばれるのでしょう 何
でそんな考え方に 世間で有名と言われる人達に合ってみると
驚く程普通の人に思える・・・そんな経験みなさんもありませんか

2.26事件についてはもっと突っ込んで考えたいと思います
annodomini_jp_vol2さんありがとう 【 】←このかっこ初めて
使いました(^^)

これは dekopon346 さんの 551 に対する返信です


ふるさと・・・!
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 2 12:10
メッセージ: 553 / 1810


   賀 春

  ふるさとの皆さん 有難う御座います


 ふるさと日本
  小泉総理様の勇気ある決断によって 命を助けて戴きました
  安部内閣官房副長官様 中山内閣官房参与様 被害者の身に
  なって考えて戴き 誠に有難う御座います 感謝申し上げます


 ふるさと若狭
  栗田知事様 小浜市長様はじめ支援対策室の皆様 マスコミの
  皆様には大変なご高配心から厚くお礼を申し上げます


 私達の二ヶ月
  その間警備を担当しておられる警察の皆様はじめ 関係者に
  対しまして心から厚くお礼を申し上げます 何時までも甘える
  わけにはいかず 早く社会復帰 特に仕事につきたく思って
  いますのでご高配をお願い申し上げます


 子供達の帰国
  北朝鮮の冬は格別の寒さで 昨今のように寒くなると子供の
  ことが心配になります どうか政府と国民の皆様方のお力で
  一日も早く帰国できますようお願い申し上げます


 故郷は天国でもったいなく感謝の毎日で 母がいてくれたらと
 涙が滲みます
                    合掌


  平成15年 正月

  小浜市飯盛
      地村 保志
         富貴恵


   福井新聞1面トップに掲載されたものです

 太平洋戦争の影響はこんなところにも なかよくできないものかと

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

訂正、宇垣一成は岡山県出身です
投稿者: hn2602 2003/ 1/ 2 13:02
メッセージ: 554 / 1810


済みません、宇垣一成は岡山県生まれでした。中国地方出身なのでてっきり長州閥と即断し下調べせずかきこみました。ご容赦の程お願い申し上げます。

これは hn2602 さんの 550 に対する返信です

少々、補足します
投稿者: dekopon346 (男性/橋の下(らしい)) 2003/ 1/ 2 20:18
メッセージ: 555 / 1810


さきほどあわてて書いたもので・・

「遵法精神」というのは、憲法上の天皇ご自身の位置をよく理解され、それを守られたという意味で使った単語です。よく、勉強不足な人が、「なぜ、天皇は軍部をコントロールしなかったんだ」などといいますが、旧憲法上では天皇大権はむしろ制限されていたことなどを知らないか故意に無視しているかだと思います。「したくても、制度上それは無理だった」としかいえませんね。

2・26事件でも、まず犯人たちが国法を犯したことで、「ノー」と明確に言ったわけです。そのうえ彼らは、「天皇は超法規的存在なるべし」とけしかけたわけですから、とんでもない、という答えしかでませんね。とにかく、法を守る、といった精神の方でした。


戦後の話ですが、ひとつ。
娘の池田厚子さんが大腸がんで苦しんでいるのをご覧になった陛下が、「楽にしてやれないものか」ということを医師に伝えた、と聞きました。そのときのお言葉は「そうすることは、医師法違反なのか」だったと。(記憶で書いているので間違ってたらすみません)
どうですか?父親として、娘の苦しみを見かねての、いわば「私」としてのことばなのに、「医師法」という、「公」の表現が使われたというのは、陛下の「遵法精神」の表れだとひどく感動したものです。

これは dekopon346 さんの 551 に対する返信です

ひらがな名で呼ぶ作戦?
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 3 2:50
メッセージ: 556 / 1810


こんばんは よいお正月ですか

太平洋戦争を考えていく順番では ガ島撤退後「い」号作戦へと
いき 山本長官機撃墜戦死へと続くのですが ここで疑問
この戦争では 「い」号作戦とか「あ」号作戦?とかひらがな1字
で呼ぶ作戦があります 何か意味があったんでしょうか あの時代
ならカタカナが普通にも思えます
暗号名だったとか・・・


また 話は飛ぶんですが 日本空襲のとき 

「京都は 原爆投下の最優先都市だったから温存され 奈良は
空襲順位が80番目だったので その前に日本が降伏し爆撃
を免れた」

・・・という一文に出あって驚いているところなんです
アメリカは 日本の文化に詳しく日本以上に京都 奈良を
大事に考えていた・・・と子供の頃から聞いてきたので
読んでいる本が悪いんでしょうか それともそうだったのか
「最優先」との違いは天と地ほど違いますからね

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

>「遵法精神」
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 3 3:53
メッセージ: 557 / 1810


「遵法精神」<よくわかりました
>よく、勉強不足な人が、「なぜ、天皇は軍部をコントロール
しなかったんだ」などといいますが

↓はい勉強しました(笑い

申すまでもないが 戦争はしてはならないものだ
・・・この戦争は私が止めさせたので終わった それが
できたくらいなら なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのか
という議論であるが・・・我国には厳として憲法があって
天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない
・・・「侍従長の回想」より

戦後の逸話もお人柄がよく出ていますね あの・・・希望します
聞けなくなって15年もたつのかー

Ps;ところでデコさん (男性/橋の下(らしい))
   橋の下? (らしい)? って

これは dekopon346 さんの 555 に対する返信です

作戦名について>s1さん
投稿者: marujee 2003/ 1/ 3 11:43
メッセージ: 558 / 1810


明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

お問い合わせの件ですがあまり意味ないのではと思います。

どちらかというと
陸軍・・・カタカナ、漢字、数字、・・号作戦が多い
海軍・・・ひらがな、漢字、ローマ字が多い

という気がします。

興味がおありなら・・・
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun25.html

これは s1_9150242 さんの 556 に対する返信です

驚きました!
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 3 13:16
メッセージ: 559 / 1810


マルジーさん>あけましておめでとうございます これからもどうぞよろしく

今日は驚きでした 知らないということは・・・ 殆ど全てと言っていいほど別名(それがほんと?)で作戦名が あんなにたくさんの作戦があったんですね

>陸軍・・・カタカナ、漢字、数字、・・号作戦が多い
海軍・・・ひらがな、漢字、ローマ字が多い

ご指摘どーりでした

ひらがな あ い に ふ ろ
カタカナ ア イ ウ
      カ キ   ケ コ
      サ     セ
      タ チ
      マ   ム
      ラ リ ル レ ロ
      ワ

・・・意味はないか・・・

海軍では確かにローマ字目だっていました
真珠湾 Z作戦  おもしろいところでは米本土風船爆弾攻撃は ふ作戦(^^)

ありがとうございました

これは marujee さんの 558 に対する返信です

運が悪かったでは済まされない
投稿者: marujee 2003/ 1/ 3 16:04
メッセージ: 560 / 1810


この話ご存知ですか?

1944/11/27 米潜水艦アーチャー・フィッシュは撃墜されたB-29搭乗員救助のために東京湾入り口の洋上で待機していたら、レーダーが大きな映像をキャッチした。その方角に近づくと、それは駆逐艦に護衛されている大型空母で、速度は20kt以上を出してジグザグ航行をしていた。空母は潜水艦の最高速度(20kt)以上であったので苦労して平行航行していたが、信濃のほうが針路変更をしたので、最適の位置で潜行し、空母の接近を待つことができた。「潜望鏡揚げ! 方位001! 距離 1500ヤード! ヨーソロ!  発射!」 
0316 前部魚雷発射管から4発、後部発射管から2発の魚雷が発射された。潜望鏡深度で空母を見ていると1発目は艦尾に命中し・・・・続いて3発の命中音を聞いた・・・驚いたことに空母はそのままの速度で航行していた・・・しかし、信濃は隔壁戸の一部が動かず、浸水対策も適切に行われなかった・・・次第に速度を落とし始め・・・信濃は傾き始め、8時間後には横倒し沈んでいった。

姉妹艦の武蔵は航空魚雷20発以上、大和は同じ舷側に10発以上の航空魚雷が命中し弾薬庫に火が入り沈んでいったのに、信濃は弾薬も積んでいないのにたった4発の潜水艦からの魚雷で沈んでしまった。

この原因について下記のようなヒュマンズエラーだといわれています。
@乗組員の被害処理訓練の不足
A.工事未完成(ダメ工事をしながらの航行であったので溶接用のケーブル、ガス切断用、エアのホースが邪魔し隔壁を閉めることが出来なかった? 気密検査未完?/不要との海軍側の指示? 一部排水ポンプが設置されていなかった?)
B.海軍側の強引な回航(B-29の爆撃が始まったのであわてて安全な瀬戸内への回航を決定した)
C設計上の問題(砲塔を積まないためバルジを少なくしたが、装甲甲板にしたため予備浮力が少なくなった。隔壁が薄い。)

なお6日前の44/11/21に台湾海峡で戦艦「金剛」が魚雷3発で弾薬庫に火が入り撃沈されています。これが米潜水艦による初めての戦艦撃沈でした。

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

まったく御意!
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 3 17:46
メッセージ: 561 / 1810


知っていますよー「信濃」 子供のころ1機の攻撃機を飛ばすことなく
潜水艦魚雷4発(1発と記憶でした)で沈んだ 不沈艦の写真見ながら
悔しい思いをしたもんです 大艦巨砲主義をすぐ?改めた海軍も
偉かったですが 昭和19年後半?と言えば時遅く 工事も急いだ
であろうことは 想像できます おっしゃるとおり「大和」「武蔵」とも
不沈艦の名をほしいままに善戦したことを思えば 姉妹艦としての
「信濃」は不運(・・・では済まされない!んでしたね)

それにしても竣工直後の沈没は何と言っても悔やまれます 当時米
潜水艦にしても 偵察機にしても 当たれば儲け物みたいに その
任務以上の伸び伸びとした攻撃ぶりが有ったように 独のUボートの
活躍ぶりと照らし合わせても・・・イ号という新鋭潜水艦を持ちながら
もっと本来の仕事に専念させなかったところにも戦果の違いが?

不沈艦は内部が細かく区切られていて損傷を受けるとその部分の
扉が閉まって また艦が傾くと逆側に注水してバランスをとっていく
んですよね 「大和」も「武蔵」も甲板すれすれまで海面に没しながらも
バランスをとってなお戦っていたとか

余談ですが 大和以上の大型艦「紀伊」10万tなんて建造計画も
あったとか(記憶さだかでは)当然没 確かに建艦技術は世界1で
あったと思います

思い出しましたが 信濃の大きさ6万tの割に搭載艦載機数の
少なさに疑問を持ちました 赤城3万t?でも80機は積めたのに
40〜50機程度であったと・・・そんな事に疑問を持ったなんて
恐るべき(笑い)子供でした あと煙突がやけに大きくスマートに
傾斜していたかと

>「金剛」が魚雷3発で弾薬庫に火が入り

・・・で思い出しましたが「陸奥」なんかもなんかヒミツっぽく
弾薬庫の爆発が・・・でなかったでしょうか

これは marujee さんの 560 に対する返信です

詐欺師君
投稿者: zak_k_org (42歳/男性) 2003/ 1/ 3 18:42
メッセージ: 562 / 1810


君は「天皇は世襲でない」と証明しな

これは annodomini_jp_vol2 さんの 549 に対する返信です

えー、あれはですね、
投稿者: dekopon346 (男性/橋の下(らしい)) 2003/ 1/ 3 20:31
メッセージ: 563 / 1810


橋の下・・・単なるしゃれです。

子供のころ、母はよく冗談に「川で洗濯してたら、あんたが流れてきたからひろってきたんだよ」と、言っておりました。

そういやプロフィールなんも編集してないな・・などと思ったので考え付いたまでです(笑)。ちなみに、このハンドルも全く意味はありません。

これは s1_9150242 さんの 557 に対する返信です

新年おめでとうございます
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 3 23:42
メッセージ: 564 / 1810


あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願致します。
実は本日帰省先から戻ってきたところで、その間パソコンから離れていたのですが、新春早々既にもう始まっていますね。

いきなりトピずれですが、今年の一般参賀の人数が過去2番目に多いということですが、昨年末に宮内庁から明仁天皇陛下が、前立腺癌に罹患され、今月早々に摘出手術を受けられるとのことで、そのお見舞いと激励の意味があったのだと思っています。宮内庁の発表の内容では、癌といっても悪性度は低いということですし、前立腺癌は外科的手術を含めて、治療法がかなり確立されている疾患ですので、必ずや完治なされることと思います。

昭和天皇と池田厚子様の逸話ですが、昭和天皇が、医師法という細かい法律を取り上げ、その遵守にお心を砕かれたことについては、感心させられる話ですが、「ノーブレスオブリージュ」の精神から考えますとむしろ当然のことではないかと考えます。昭和天皇は、イギリス流の立憲君主制度を目指されていたことから、「ノーブレスオブリージュ」の精神も同様にイギリスから学んでおられたことと思います。一方で、イギリス王室の現在の退廃ぶりには、嘆息せざるをえません。もっともゴシップ誌にとってはその方がありがたいとは思うのですが。
日本人は偉い人は、ある程度は何をやっても許される、と本人はそう考え、周りもそれを許してしまう風潮があるのではないか、と考えております。最近明るみになった政官業のスキャンダルは、傍目に見たらとんでもないことをやっていても、内輪では、特に悪い事をしていないし、周りもそう考えている、そういった意識のズレがあるのではないかと考えています。
そういった意識のズレを国民の隅々まで矯正するためにも、是非こういった逸話は、世間に広めて欲しいと思います。

これは dekopon346 さんの 555 に対する返信です

君臨すれども統治せず
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 4 17:09
メッセージ: 565 / 1810


昨日の投稿で昭和天皇がイギリスの立憲君主制度をお手本としたと述べましたが、イギリスの立憲君主制度を体現化するフレーズを思い出しました。表題の「君臨しれども統治せず」で、これを言い出した王様は、ドイツかオランダから来た王様で英語がままならなかったそうで、議会と上手くやっていくためだとか、英語がままならなかったので議会には口出しできず、その言い訳に出てきたセリフだとか言われています。イギリスの国王が、ドイツやオランダからきたようにヨーロッパの王室間で姻戚関係が結ばれていたようです。従って、ヨーロッパの王室にはDNA的な○○人というのはなさそうです。そういえば、現在のノルウェー国王にもイギリスの王位継承の権利があるそうですし。
また一昨年の天皇陛下の会見で、桓武天皇の母親が、百済王朝の血を引いていると仰られ、話題になりましたが、国家と民族の関係について考えさせられる事象です。

これは s1_9150242 さんの 557 に対する返信です

戦争と「お金」・・・
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 4 18:15
メッセージ: 566 / 1810


オ・ソレさん>あけましておめでとうございます
帰省はいかがでしたか(^^)

じつは今までNHKの「秀吉」 見ていました 昨日は「信長」
明日は「家康」だそうです 大河の総集編らしいですが 泣いたり
笑っ(はなかった)たり 1時頃からですから メチャ長いんで
すが アッと言う間に時が流れました 気が付いたんですが
秀吉中国攻めのとき 近隣のお百生さん達に高松城?の水攻めを
する為に 土俵を運ばすんですが 一表につき米一升を渡すと
それを聞いて狂気した人達が あれよあれよと(自分のご主人?
様のお城をせめているのにね)

日本には昔から「お金」 を汚い物という考え方があるように思い
ます しかしほんとうに歴史を動かしたものは こういった経済
の力ではないかと思いました(堺衆とか) 

「太平洋戦争」 が終わったとき マッカーサーは土地の開放と
共に財閥解体を行ったと聞いています これは経済界が戦争に
大きく係わっていたことの証明なのかと
こういったことは 勇ましくもなく 先ほどの「お金」に対する
アレルギー?からあまり語られないようですが・・・

片方に極貧の多くの方(2.26の1因) 片方に大財力を持つ
財閥 こんなところからも「太平洋戦争」について考えて見るとまた
違った見方もででくるかなーと思いますが
・・・エラソウにね(^_^;)

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

>えー、あれはですね
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 4 18:44
メッセージ: 567 / 1810


>子供のころ、母はよく冗談に「川で洗濯してたら、あんたが流れてきたからひろってきたんだよ」と、言っておりました。

そういった意味でしたら 私も笑いながら子供に言ったことがあります(^^)
・・・何でそう言ったんだろと考えて

1)そういった(sex)ことで生まれたんだよーと言うのが照れくさい?
2)いつまでも守ってやれないから早く自立するんだよー
3)桃太郎伝説が頭のなかに

なんかそんなんが入り混じっていたかと(笑い

これは dekopon346 さんの 563 に対する返信です

2・26事件の伏線
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 5 0:08
メッセージ: 568 / 1810


1931年に関東軍参謀だった石原莞爾及び板垣征四郎の独走(といわれていますが)により満州事変が起り、満州国が建国されて以降、陸軍は指揮命令系統が機能しなくなりました。下克上により成り上がった石原莞爾も下克上により失脚しました。
この時期陸軍は、ここでも話題に出ております通り皇道派と統制派に分かれておりますが、目的は同じ戦時国家総動員体制の構築でありますが、皇道派はクーデターによる達成を目指すもの、統制派は議会に圧力をかけながら目標に到達するというようにプロセスが異なっています。
皇道派と統制派は1930年代の陸軍の主導権を奪い合いながら、2・26事件以降統制派が主導権を握り、日米開戦に至ります。
2・26事件の伏線としてこの皇道派と統制派の主導権争いが伏線としてあったと言われています。
皇道派の荒木貞夫大将が陸相に任ぜられ、皇道派が陸軍人事の主要ポストを握ります。1933年に皇国国策基本要領が陸軍よりまとまられましたが、当時の蔵相の高橋是清が強硬に反対し、この要領は日の目を見ませんでした。このことが2・26事件で高橋是清が暗殺された要因です。
その後林銑十郎が陸相に任ぜられると風向きが変わり、林陸相から永田鉄山が陸軍省軍務局長に抜擢されると、陸軍主要ポストからの皇道派の一掃が図られました。その最たるものが皇道派の中心人物である真崎甚三郎大将の教育総監更迭です。後任の渡辺総監も2・26事件で暗殺されました。
この人事を断行した永田軍務局長は皇道派の相沢中佐に1935年に暗殺されており、翌1936年に2・26事件がおきます。
この一連の流れで2・26事件が発生したとするとこの事件の黒幕は、真崎大将ではないかという気がします。現に真崎大将は、事件発生後占拠先に赴き「君たちのいうことはよくわかっている」と言ったと言われていますし、当時の川島陸相に働きかけ、青年将校の要求を昭和天皇に伝えようとしたと言われています。
ただし、2・26事件で命を狙われた要人は上記の2名に加え斎藤内相、岡田首相、鈴木侍従長、牧野前内相の四名ですが、斎藤、岡田、鈴木は海軍の出身者であり、永田少将は事件前に暗殺されていますが、この統制派の中心人物が暗殺の目標になっていないのは、解せない点です。この人選では、海軍を敵に回すことになり(現にそうなりましたが)、陸軍の主導権争いとしては余りにも要領を得ないのでは、と思います。
他にも、この時期宇垣大将を担ぐクーデターが陸軍で計画され、宇垣が煮え切らなかったため中止されたとも言われていますし、若い者にやらせておいて、周りの空気を読みながら、いけそうならば若い者が担いだ神輿に乗り、そうでなければ知らぬふり(2・26事件の場合、昭和天皇が激怒されたため、真崎が引いた?)をしたという深読みもできますが、そうであればやりきれない事件ではあります。
思いつくままを書き留めましたので、思い違いもあるかもしれません。ご指摘頂ければ幸いです。

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です
28
最後まで読んでないけど…
投稿者: unonojp 2003/ 1/ 5 0:27
メッセージ: 569 / 1810


初めまして
いきなりレスつけます。

私の知識では〜第二次世界大戦は、ドイツ率いるヒットラーがポーランド侵攻してはじまって〜太平洋戦争は、日本軍が真珠湾攻撃した事によってはじまって〜大東亜戦争は戦争中に日本軍を“神聖化”するために呼ばれたんじゃないですか?

その当時、日本軍はかなり朝鮮半島・中国人やアジアの人達を軽蔑していたみたい。
当時は“当たり前”でも、今考えるとかなり“残虐”だったと思う。
あくまで私の考えと知識だけどね。

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

>2・26事件の伏線
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 5 1:01
メッセージ: 570 / 1810


後継内閣の首班に平沼男は不可なり 真崎はかく首することを要すべし陸軍大臣には各方面に因縁なき若い者を出すことが必要なり而して此者に自由手腕を振い得るが如き内閣を組織せしめられたし(木戸幸一日記)

と天皇が言っておられるところからも 真崎大将首謀は当たっているのではないでしょうか いつもながらのオ・ソレさんの文章にオソレいっています(^^) 3回読みました

かく首とは 職をクビにすること?または ほんとうに首を?そんなことないよね 

これは o_sole_mio00 さんの 568 に対する返信です

またゆっくり読んでください
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 5 1:28
メッセージ: 571 / 1810

unonojpさん>レスありがとう

みなさんのおかげで大分勉強しましたよ 
ぜひunonojpさんもご指導ください 

>その当時、日本軍はかなり朝鮮半島・中国人やアジアの人達を軽蔑していたみたい。

日本人に限らないかも知れませんが(みんなじゃないですよ) 「弱いと見ればいばり 強いと見ればへつらう」当時 日本軍はアジアで敵なしだったんでしょうね ほんとうは「弱きを助け 強きをくじく」なんでしょうが でも今中国なんか強い態度?ですから これからはどうなるんでしょうか

これは unonojp さんの 569 に対する返信です

財閥と新興コンツェルン
投稿者: hn2602 2003/ 1/ 5 2:32
メッセージ: 572 / 1810


国家の総力戦ですので、最終的には天皇、財閥を含め、ほとんどの国民各層が戦争遂行に協力しましたが、基本的に財閥は、新興コンツェルン(日産など)と異なり、当初は軍部の攻撃対象でした、三井合名の団琢磨が右翼に暗殺されています。旧財閥は日本の工業力の根幹を形成していたので、日本の軍事的再興を阻止するためにマッカ−サ−による解体指令を受けましたが、ある意味とばっちりといえると思われます。
 日本の戦争への突入は、敗戦による権力の喪失を恐れる旧支配層(天皇、財閥を含む)の反対を押し切って暴走した軍部の一部とこれを支持した(閉塞感の打破を求めた)一般国民を政府がコントロ−ルできなくなったことが主因です。「一億総懺悔」という言葉が通用したのは暗々裏に国民がそれをわかっていたからだと思います。

これは s1_9150242 さんの 566 に対する返信です

>財閥と新興コンツェルン
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 5 2:54
メッセージ: 573 / 1810


>当初は軍部の攻撃対象でした

それは知りませんでした 

>暴走した軍部の一部とこれを支持した(閉塞感の打破を求めた)一般国民を政府がコントロ−ルできなくなったことが主因です。「一億総懺悔」という言葉が通用したのは暗々裏に国民がそれをわかっていたからだと

>>暗々裏に国民がそれをわかっていたからだと

説得力ありますね 私は企業悪論者ではもちろんないですが 普通に耳に入ってくる言葉の中に「死の商人」とか「多国籍企業」とかが 戦争をするどちらの国にも武器を売る また戦争がないなら 無理にでも起こす・・・これは今の時代のことでしょうが こんな事ってあるんでしょうか? 笑われそうですが よろしければ

hn2602さん>いつもありがとう

これは hn2602 さんの 572 に対する返信です

軍部とメディア
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 5 23:14
メッセージ: 574 / 1810


hn2602さんの
>日本の戦争への突入は、敗戦による権力の喪失を恐れる旧支配層(天皇、
>財閥を含む)の反対を押し切って暴走した軍部の一部とこれを支持した
>(閉塞感の打破を求めた)一般国民を政府がコントロ−ルできなくなった
>ことが主因です。

のご指摘は、示唆に富んでいるものだと思います。一般市民が戦争に対してどのように関与していたかを考えさせられる機会にもなりました。軍部と国民を結ぶものとしてまず浮かぶのはメディアです。当時のメディアとして主体となるのは、新聞報道ですが、1930年頃までは軍部に対しても批判的な論調が見られたのに対し、1931年に満州事変が起こり、1932年を過ぎたころから、軍部に対して批判的な記事はほとんどなくなったとのことです。
一つの要因として、この時期に言論統制が強化されたことがあります。1933年に陸軍省及び海軍省が軍部批判は軍民離間の行動として非難するという声明を出しており、軍は民心が離れないように報道に気を配っていることが判ります。また一般論(当時の日本でどの程度この一般論が通じるかはわかりませんが、ある程度は通用するものと思います)として、メディアは世論のニーズに基づいた報道を行う傾向がありますので、世論が軍部を支持(満州国の成立に伴う大陸での権益獲得による、経済状態の好転、あるいは大陸で一旗あげることを期待して)していたがために、軍部寄りの報道を行ったという要因もあるのではないかと思います。

>「一億総懺悔」という言葉が通用したのは暗々裏に国民がそれをわかって
>いたからだと思います。

「一億総懺悔」に対して、当時国民全体に余り否定的な意見が出なかった理由は、当時の国民は明日の暮らしのことで精一杯で懺悔するしないの議論をする余裕などなかったことと思います。日本国民が、江戸時代から続く長い封建社会や明治以来の高度の中央集権社会で、支配されることに馴らされた、従順な国民性(「お前達も悪い」と言われればなんとなくそう思ってしまう)が成立していたこと及び戦時中の緊張感から開放され「一億総(?)放心状態」であったことなども要因としてあると考えています。

これは hn2602 さんの 572 に対する返信です

メディア・・・
投稿者: hn2602 2003/ 1/ 6 1:35
メッセージ: 575 / 1810


o sole mio00さんの仰るとおり、メディアの果たした役割は大きなものがあります。この点については石橋湛山の「東洋経済」や、「朝日新聞」などの個々のマスコミごとに検討しなければならないと思います。
 ちょっと文献を出せない(実は阪神淡路大震災の時に本の整理がぐちゃぐちゃになり、その後購入した本もあり、訳がわからなくなった状態がずっと続いているのです)のですが、戦争前に列車内で大声で一般の人が、戦争待望論を述べ、且つアメリカには勝てないだろうが負けても今より悪くはならないだろうとの話を聞いた人(日本浪漫派か農本主義者だったと思うのですが)が憤慨した文章(の引用)を見た覚えがあり、これを戦争による時代の閉塞感の突破口を求める意識が広く一般国民にあった証左と感じたのです。父の世代や祖父の世代の人々と戦前について話して受けた感覚も同様なもので、少なくとも私の父や母方祖父はアメリカと戦争したら負けるということは疑っていなかったようでした。

これは o_sole_mio00 さんの 574 に対する返信です

謹賀新年
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/ 6 4:51
メッセージ: 576 / 1810


トピ主様、皆様、明けましておめでとうございます。

さて、

>ドイツかオランダから来た王様で英語がままならなかったそう

えーと、それは現イギリス王家の始祖で、ドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオーク、つまりイギリス王ジョージ1世ですね。(「選帝侯」というのはドイツの神聖ローマ皇帝を「選挙」する際の選出委員会の諸侯メンバーみたいなものですね。皇帝を選挙で選ぶという事自体、びっくりしましたが、もちろんお金がモノを言いましたし、1806年に滅亡する神聖ローマ帝国も後期はハプスブルク家が帝位を世襲しました。)
次のジョージ2世まで英語が話せず、よって国王も議会に殆ど口出し出来ず、議会の権限が伸長しています。
ジョージ3世は英語が話せたので、王権の復活を図りますが、失敗し、失意の余生を送ったという件りを読んだ事があります。

そう言えば、現スペイン王家はブルボン家ですね。

これは o_sole_mio00 さんの 565 に対する返信です


ウォーナー・リスト
投稿者: EzoWolf 2003/ 1/ 6 17:35
メッセージ: 577 / 1810


>「京都は 原爆投下の最優先都市だったから温存され 奈良は
> 空襲順位が80番目だったので その前に日本が降伏し爆撃
> を免れた」

> ・・・という一文に出あって驚いているところなんです
> アメリカは 日本の文化に詳しく日本以上に京都 奈良を
> 大事に考えていた・・・と子供の頃から聞いてきたので
> 読んでいる本が悪いんでしょうか それともそうだったのか
> 「最優先」との違いは天と地ほど違いますからね

アメリカが日本の文化を大事にしたからというのは間違いのようです。

姫路城不死鳥伝説の 17. 幻の文化財保護 をご覧下さい。

http://www.sanynet.ne.jp/~gino/phoenixs.html

#このサイトも力作です。

これは s1_9150242 さんの 556 に対する返信です

明けまして...って、遅すぎ...
投稿者: jnfi67 2003/ 1/ 6 18:18
メッセージ: 578 / 1810


遅ればせながら、明けましておめでとうございます。(もう、6日も経ってるって;;)

休み中はずっと実家だったもので、パソはまーったく、見てませんでした。
完全、スタートダッシュ遅れですね。;;

未だ休みボケで、おいおい、書きたい事整理してみます。

まだ、全部読ませて頂いてませんが(それでも、皆さんの意見、含蓄あり、頷きます)興味を引いた点を...

1.信濃が沈むの、早過ぎない??
→どなたかおっしゃってた...工事未完了での出港。これは致命傷ですね。
実はワタクシ、商船大学出身で、乗船実習なんかもしましたが、確かに防水区画部分に配線やら工事部材やらごっちゃになってたら。。。乗船拒否します(^^;
全般的に日本の艦艇は「直接防御(装甲)」は重視するも、「間接防御(ダメージコントロール)」は戦争中〜末期まで全く手ずかづ、でした。その意識の差なのでしょうか。

2.信濃の搭載機数
→またもや、信濃(笑)+大鳳。
この2隻は大きさの割りに、搭載機数が極端に少ない。
赤城、加賀(三万トン前後)、翔鶴・瑞鶴(二万七千トン)で、常用+補用で85〜90機。蒼龍・飛竜(2万3、4千トン?)で70機前後なのに、五万トン近い大鳳、六万トンを越す信濃が50〜60機。これは何故?ですが。
この2隻(信濃、大鳳)は英国スタイルの空母だからですね。
重装甲(飛行甲板にも装甲を張った)の為、その部分に排水量を取られ、機載スペースを確保出来なかった。
英国正規空母も排水量三万トン近くありましたが、搭載機数は50機程度でした。
対して米正規空母(例えばエセックス級)は装甲は薄いですが、ダメージコントロールがしっかりしていた。構造もオープンハンガー採用で被弾時の爆風を外に逃がす工夫とか。
どちらが正解とかは言えません。
エセックス級は単艦だけでなく、数(集中配備)、エスコート(護衛艦艇の数)、運用(輪形陣、レーダー等のハードウェア、防空調整官の配置等のソフトウェア)等々が組み合わさって実力を発揮できたのですし。

でも、やっぱり、航空戦は数量だよなぁ...

これは s1_9150242 さんの 544 に対する返信です

>君臨すれども統治せず
投稿者: jnfi67 2003/ 1/ 6 18:46
メッセージ: 579 / 1810


>英語がままならなかったので議会には口出しできず、その言い訳に出てきたセリフだとか言われています。

→これは知りませんでした!確かに、言葉が出来ないと国王陛下も冷や汗モノですよね。
今の英国王家はハノーヴァー家で、ドイツのハノーヴァーから来ましたし。(ドイツ系)
ロシア・ロマノフ家最後の皇帝と、ドイツ第2帝国のヴィルヘルム帝は母方の従兄弟同士で、祖母は英国のヴィクトリア女王(ヴィルヘルム帝は、ヴィクトリア女王から「可愛いヴィリー(ヴィルヘルムの愛称)」と呼ばれていましたし。
スウェーデンのヴェルナドット家はフランス貴族の出身だし...
少なくとも、各王家には「国境」は無かった??(どうなんでしょう...)

私見ですが「国家と民族」って「家と住民」の様に思います。
家だって建て替えるし、改修・改築するし。
国家(又は支配者?)も同じかなぁ、と。

これは o_sole_mio00 さんの 565 に対する返信です

裏話Part2
投稿者: jnfi67 2003/ 1/ 6 19:17
メッセージ: 580 / 1810

懲りもせず、第2弾です(笑)

1.寄生虫で思い出したのですが、旧海軍では「大」便所の中に「しょうこう水(だったかな?)」と呼ばれる消毒液をタップに入れて置いており、「用を足す」→「消毒液で手を洗う」→「ズボンを上げる」だったそうで。
この為、雑菌、ギョウ虫の類いが衣服につく事を防止したそうです。
軍医科の研究で、ちり紙20枚以上合わせて拭かなければ、ギョウ虫は「敵中突破」する事が判明したそうです。
(ええっ?ワタクシ、20枚も重ねてませんよ。。。冷や汗;;;)

2.士官の隠語:帝国海軍の士官はやたらと隠語がお好きだったそうです。
それも、変な語呂合わせ?英語崩れの。
@.「アフター・フィールド・マウンテン」後は野となれ山となれ
A.「スモールハート・ウィング・ウィング」小心翼々
B.他にも「KA」かかあ。つまり奥さん。「コッヘル」ドイツ語で銅。転じてドウター。つまり娘さん。「レス」レスト。休憩。転じて「待合所」→「待合、料亭」
他にも、色々...
笑えるのは...「ポスる」つまり、女性と「いたす」事。
戦前、ガンルームの従兵をしていた兵卒が、ガンルーム士官が「おい、昨夜ポスったか?」「おう、ポスった、ポスった。」と言う会話を覚えていて、普通科練習生の試験の問題で「ポスターとは何か」の問いに「士官達が夜、上陸して良くされる事」と解答したとか。その水兵さんは冗談ではなく、純粋に純真だったんですね...

これは dekopon346 さんの 493 に対する返信です

病気予防のことなど
投稿者: dekopon346 (男性/橋の下(らしい)) 2003/ 1/ 6 20:33
メッセージ: 581 / 1810

以前、血液検査会社に勤めていたころ、講演会で聞いた話ですが・・・


大正年間のあるとき、日本海軍の戦艦(比叡?)で、赤痢が発生し、乗り組み1200人中200人余りが患者になりました。こうなるとその戦艦はもう戦闘能力がゼロになり、いわば一発のタマもなしに戦艦一隻が消えてしまった状態でした。このときこのフネの軍医長が意見書を出して、「今は平時だからいいけど、戦時にこんなことになったらそれこそ大変だ。これからは病気を防ぐことを考えなくてはならない。」と主張し、これが日本の予防医学の始まりだ、といった内容の話でした。


こういうことから、海軍のほうが病気の予防という面では陸軍よりも進んでいた、といえるのではないでしょうか。

これは jnfi67 さんの 580 に対する返信です

軽蔑していたか?
投稿者: dekopon346 (男性/橋の下(らしい)) 2003/ 1/ 6 20:49
メッセージ: 582 / 1810


>その当時、日本軍はかなり朝鮮半島・中国人やアジアの人たちを・・


「軽蔑」も、少しはあったけれど、むしろ「無知」だったんじゃないでしょうか?メディアといえばNHKと新聞だけ、海外に関する生きた知識などほとんどなく、多くの兵士は、例えば南方といえば「冒険ダン吉」程度のイメージしかもたずにそこへ行ったのではと思うのですが。

>神聖化
これは、戦争になれば、どこの軍隊でも(程度の多少はあれ)やっていたんじゃないかな。

これは unonojp さんの 569 に対する返信です

>ウォーナー・リスト
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 6 21:47
メッセージ: 583 / 1810

EzoWolfさん>ありがとう
全部読みました 2時間かかりました
何と言うか「姫路城」がなぜ爆撃から逃れたかまでにいたる経過を抜群の構成力で・・・読んでいて 人のいい日本人がかわいそうになってきます まずは知ることがいかに大事なことか痛感しました

http://www.sanynet.ne.jp/~gino/phoenixs.html

ありがとうございました

みなさん>ゆっくりまた書かせていただきます 楽しいのもありましたね とりあえず(^^)

これは EzoWolf さんの 577 に対する返信です

大原美術館と倉敷
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 6 22:48
メッセージ: 584 / 1810


米国が空襲の目標に文化財に特に配慮していなかったのではないか、ということが話題となっておりますが、岡山県で空襲にまつわるこんなエピソードがあります。
岡山県で空襲の被害が大きかったのは、岡山市街地と三菱の工場があった現倉敷市南部の水島地域ですが、岡山県第2の都市である倉敷市街地は空襲を受けませんでした。このことについて地元ではこのように言われているそうです。

1932年リットン調査団が満州を調査したのち、団員が大原美術館に立ち寄り、そのコレクションに感動したため、その団員が空襲目標から外すよう主張し、その主張が認められ、倉敷市街は空襲を受けることがなかった。

ちなみに大原美術館は、1930年に当時の倉敷紡績社長であった大原孫三郎が創立した、日本初の西洋美術館です。
ところが現実は、倉敷市街地は戦略上の重要性(水島には工場が、岡山市街には師団がありました)が乏しく単に優先順位が低かっただけのようです。
もっともこの話にはおまけがありまして倉敷にも連隊を置く計画が上がったとき、倉敷市街に工場を持ち、多くの女工を抱える大原孫三郎が風紀が乱れるとの理由で強硬に反対し、計画を撤回させてしまったそうです。
いずれにしても大原孫三郎は倉敷を護ったと、言えるのでしょうか。

これは EzoWolf さんの 577 に対する返信です

勉強になります
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 6 23:57
メッセージ: 585 / 1810

そういうことが・・・別トビのですが(いいのかな?)知りたかった話題でしたので

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=fn5febg5tbba6a 1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4obbvbcb&sid=1835208&mid=1678

このカテにきてよかったと つくづく思います すこしづつ慣れるにしたがって 「軍事」「教育」「ニュース」「法」とか行って時間を忘れます もっと早く来ていればよかったなーと 皆さん今年もよろしく(^^)

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

横レスですが>裏話Part2
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 7 0:18
メッセージ: 586 / 1810


ちり紙20枚以上・・・は大笑いいたしました これって今でも通用する話ですね そうそう この話で小さい頃「カイニンソー」って 虫下し?の飲み物学校でよく飲まされました みんな 鼻をつまんだりしながら 戦後衛生面は気を使っていたんでしょうね それから脱脂粉乳のミルクとか 名前は忘れましたが 小さいゼリー状の栄養剤?なんかも 「アメリカが送ってくるんだって」とみんなが言っていました 子供心に 凄い国なんだなーと思ったり そんな昔を思い出しています ありがとうございました(^^)

...「ポスる」も^^

これは jnfi67 さんの 580 に対する返信です

空襲
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 7 2:57
メッセージ: 587 / 1810


伝わっている話では(私の県?だと思う)B29はまず 市街地のまわりに焼夷弾を落とし町の人が市街地から出られなくしてから ゆっくり? 町を火の海にしていった・・・と聞いています 聞いた時ほんとうに腹がたちました

しかし今日のエゾさんのご紹介によると爆撃はなかなか不安定要素もあり 特に注目はまず先導機による 中心点の焼夷弾投下から始まるみたいです いずれにしても絵に描いたような精密な爆撃は難しいみたいですから 上記のようなことは・・・

オソレさんの投稿の中にもありましたが 軍関係の所 又は工場が1番先は当然ですね >大原孫三郎は倉敷を護ったと、言えるのでしょうか→結果としては そうなるんでは?

思い出しましたが 赤十字のマークをつけた船を米潜水艦が攻撃して沈めたと聞いた事がありますが どなたかご存知ありませんか(ひょっともして 日本軍が隠れ蓑に?) 

これは o_sole_mio00 さんの 584 に対する返信です

スウェーデン王室とスペイン王室
投稿者: annodomini_jp_vol2 (男性/九州) 2003/ 1/ 7 3:07
メッセージ: 588 / 1810


>スウェーデンのヴェルナドット家はフランス貴族の出身だし...

ナポレオン配下の元帥、ジャン・ベルナドットが国王になってから、今に至りますね。
名前に「ド」が入ってない事だし、多分ですが平民出身だと思いますよ。彼は。
私はナポレオン時代が好きだったりするので、ベルナドットは敵です^^

…彼はナホレオンの御陰でスウェーデンの王太子になりながら、彼を裏切りましたからね。
ま、スウェーデン王国を保つには仕方なかったのかも知れないけど、にしては積極的過ぎる面が有り。


スペイン・ブルボン家は、ベルナドット家よりずっと前の、ルイ14世時代に始まります。
スペイン・ハプスブルク家の断絶の後、ブルボン家に継承権が有るとしてルイが介入。
これに対してオーストリア・ハプスブルク家とイギリス・オランダ等が反対し起きたスペイン継承戦争で、
結果、ルイの孫のフィリップが即位を認められまして以来の王朝ですね。なお、この戦争で、イギリスは
北米のフランス・スペイン領土と、ジブラルタルを獲得しまして、以後の歴史を大きく変えます。

…と以前、世界史で講義したっけなぁ〜。

これは jnfi67 さんの 579 に対する返信です

ちょっと教えて>jnfi67さん
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 7 3:31
メッセージ: 589 / 1810


明けまして・・・はまだまだいけるのでは? どうぞよろしく

>米正規空母(例えばエセックス級)は装甲は薄いですが、ダメージコントロールがしっかりしていた。構造もオープンハンガー採用で被弾時の爆風を外に逃がす工夫とか。

 オープンハンガー?って 検索かけてみたんですが 舷側何とか エレベーター?とか今一よく解らなかったんですが お暇なとき よろしく

それから装甲という言葉が出てきますが 厚さのことですね よく装甲が厚かった「大和」なんかでは 爆弾を弾き飛ばす・・・というような表現を見聞きしますが 爆弾って 当たれば爆発するんでは? すべって海に落ちてしまう?どんなんでしょうか

これは jnfi67 さんの 578 に対する返信です

格納庫
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/ 7 10:01
メッセージ: 590 / 1810

横からゴメンナサイ。

>オープンハンガー

ハンガーとは、簡単に言えば飛行機の「格納庫」ですね。つまり、「開放式格納庫」。
従兄が中学生頃作っていたプラモデルをあらためて見て、日米の空母を比較してみると、例えば米空母は格納庫の横が開いていて、仮に急降下爆撃などで飛行甲板を貫いた爆弾が格納庫内で爆発しても、爆風を外へ逃して被害を低減する事が出来るなあと、思いました。
とは言え、九州沖航空戦での米空母フランクリン(エセックス級)は特攻機の体当りではなく通常の爆撃で(爆弾2発であったと読んだ事があります)、珊瑚海でのレキシントン以上の大被害を受けています。もちろん、高々度からの水平爆撃ではありません。(私が知る限り、正攻法での高々度水平爆撃で空母に800キロ爆弾を直撃させたのは、後にも先にも南太平洋海戦での空母瑞鳳分隊長田中一郎大尉[ご存命の筈]の編隊ではないでしょうか。田中大尉は艦上攻撃機偵察員で、実は魚雷を使いたかったが、瑞鳳被弾後着艦した瑞鶴ではもう魚雷が無く、やむを得ず800kg爆弾を使用したとの事です。しかしそれでも空母ホーネットは浮かんでいました。真珠湾での戦艦アリゾナ爆沈は、運良く火薬庫に命中させる事が出来たのでしょう。)
しかし、それでもフランクリンが沈没を免れたのは、ひとえに水際立ったダメージコントロールの賜物ではなかったでしょうか。
ミッドウェー後は日本もダメコンに神経過敏になり、南太平洋海戦でも、飛行機を格納庫内にしまう際に、爆弾や魚雷を付けっぱなしにはしないように、念には念を入れたようです。これにより手間暇は増えましたが、やむを得ないでしょう。おかげで翔鶴は大破しましたが沈没は免れています。

ところで、この正月にちょっと古本を買う機会があったのですが、運良く大井篤大佐の「海上護衛戦」(朝日ソノラマ)を見付け、さらに別の本も併せて流し読みしましたが、台湾沖航空戦直後の聯合艦隊司令部(横浜日吉の慶応大学地下壕)での参謀のやり取りが出ていました。
誇大な戦果を疑う聯合艦隊情報参謀中島親孝中佐がエセックス級の模型を前にして、「米空母の装甲はこんなに厚いんだぜ。日本の母艦だって簡単には沈まないのに、米空母がそんなに沈む訳が無い」と、同僚に反論している場面が出てきます。

>爆弾って 当たれば爆発するんでは? 

信管の違いにより、瞬発式と遅発式では、前者だと当たればすぐ爆発しますが、後者だと当たってから例えば0.5秒後など、予めセットしたタイミングで爆発するので、甲板を貫いて艦内や艦底で爆発させたい場合、後者の信管を使います。
アメリカは、日本側の証言によると、瞬発式の信管も多用していたようです。これにより、まずは甲板の対空砲火とその人員を制圧する事を目指したのでしょう。

信管と言えば、余談ながら、大戦末期には日本も光学式の一種の「VT信管」付き陸用爆弾を使用しています。これは地上までの距離を感知して自動的に空中で爆発させるものでした。
昭和19年暮れから正月にかけての、海軍K501飛行隊の「銀河」は、「せめて正月ぐらいは国民に静かに過ごしてもらいたい」という飛行隊長森本少佐の意志も強くはたらき、サイパンのB-29基地を爆撃しています。これには、当時海軍の指揮下にあった陸軍の四式重爆撃機「飛龍」(飛行第七戦隊?)も参加していますが、「せっかく雷撃訓練をした部隊を陸上爆撃に使用しするとは、話が違う」と陸軍側から海軍に対して抗議があったとか。
残念ながらB-29の勢力を弱める事は出来ませんでしたが、森本少佐(このサイパン爆撃で戦死)の心情は、もっともな事です。ちなみに、アメリカ側では、「機銃掃射を受け、地上施設に無数の穴が開いた」と記述されているようで、これが即ち空中で爆発した光学式爆弾の粒子の散乱によるもののようです。

これは s1_9150242 さんの 589 に対する返信です

>ちょっと教えて
投稿者: jnfi67 2003/ 1/ 7 11:20
メッセージ: 591 / 1810


honkytonk_2002_xさんがおっしゃってられるとおりです。(いや、凄い。圧倒的に詳細な説明。感服です)

日本の空母はハンガー=格納庫(飛行甲板の下部)は密閉式(クローズドハンガーと言います)。写真や模型でもそうですが、飛行甲板の下はぐるっと装甲が周囲を囲ってますよね。
波浪が入る事は無いし、機銃弾や至近弾の被害も防げる。
ですが、格納庫内で被弾すると爆風は逃げ場が無いから格納庫内を暴れまくるんです。

エセックス級のオープンハンガーは、普段航行中は「シャッター」を降ろして密閉式と同じ状態にします。
戦闘時には開放して、爆風を逃がす流路を作ってやる。という構造です。
現代の攻撃型空母もこのオープンハンガー方式のはずです。

装甲が爆弾を弾き飛ばすのも、瞬発式と遅発式の差でしょうね。爆破する前に、装甲に弾かれるんです。艦艇の装甲は大なり小なり、傾斜を持たせていましたから、遅発式だと角度によっては滑って海に落ちてから爆発する事もありました。

舷側エレベーターについては、エレベーターは文字通り、格納庫から航空機を飛行甲板に上げる為に設置されていまして(英海軍では「リフト」と呼んでいました)まぁ、荷揚げ用エレベーターと同じです。
日英の空母や、エセックス級以前の米空母は飛行甲板の中部・後部の中心線沿いに設置されていました。
ただ、これだと航空機の上げ下ろしの最中は飛行甲板での運用は中断されます。(甲板のど真ん中が、ぱっくりと穴開けて上下していますから)
そこで「舷側」、艦の左舷(左端の部分)にエレベーターを設置して、機体の上げ下ろしと飛行甲板上の運用(発着艦等)を同時に行おう、としたのが、この「舷側エレベーター」です。
「舷側」とは、艦船の左右両側(右舷、左舷)の事を言います。

これは s1_9150242 さんの 589 に対する返信です

よーくわかりました(^^)
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/ 7 13:11
メッセージ: 592 / 1810


honkytonk_2002_xさんjnfi67 さん すごくよく解りました
ありがとうございます 私も空母のプラモは作ったことがある
ので よくわかりました それにしてもお二方の知識には脱帽!

空母は太平洋戦争の花形ですからどうしても そこへ目がいきます
現在の原子力空母エンタープライズなんかは甲板を斜めに張り出し
発着艦を同じにできるようにしていると思いますが 当時はどう
でしょうか 

また現在では 垂直離着陸機なんかもある?とそうするとあの長い
甲板もいらなくなるのでは

当時の空母の写真なんかで よく翼を折った機が甲板上にずらーっと
並んでいる物を見かけたことがありますが そんな戦闘機もできて
いたんですね あれだとたくさん飛行機積めそうで驚いたことが

早速のレスほんとうにありがとう!

Ps; 弾が甲板をすべって…の話はほんとうだったんですね

これは jnfi67 さんの 591 に対する返信です

>当時はどうでしょうか 
投稿者: crub4o 2003/ 1/ 7 16:41
メッセージ: 593 / 1810

>現在の原子力空母エンタープライズなんかは甲板を斜めに張り出し発着艦を同じにできるようにしていると思いますが 当時はどうでしょうか 

現代でも、航空母艦の甲板上は「世界一危険な職場」と言われますが、
当時は、それに輪をかけたてんやわんやの騒ぎだったと思います。
発艦の時は、艦首部分を除いて所狭しと艦載機が並び、それが一斉に
暖機運転をしてるわけですから、整備員は今と同様、命懸けですね。
事実、過労でふらついた整備員がプロペラに首を刎ねられた事故などは
ざらだったようです。
着艦の時は、現代の巨大な高速ジェット機程の危険は無いものの、別の
恐怖がありました。
舷側リフトが大々的に採用される前は、次々に着艦する艦載機を格納庫に
リフトダウンする時間的空間的余裕が無く、艦載機は艦首から順番に
移動整列され、次第に航空母艦の前半部は着艦機で埋め尽くされるわけです。
こうなると、着艦できるスペースは後半部しかありません。
着艦フックを拾えなければ、最早タッチアンドゴーで舞い上がる余地は全く
ありませんから、そのまま着艦機の群れに衝突するか、緊急起動される
制動索にプロペラから突っ込むかしかありません。
着艦自体が技術的にも精神的にも大変高度で負担のかかる作業であるのに、
更にこんな「究極の選択」を毎回強いられるのですから、本当に素人には
計り知れない世界だと思います。

これは s1_9150242 さんの 592 に対する返信です

太平洋戦争について「考えて」(教育編)
投稿者: jnfi67 2003/ 1/ 7 19:22
メッセージ: 594 / 1810


以前に口走ってしまったので、自分なりに考えてみました。;;
「教育の不備」編です。

(海軍)
1.躾教育の功罪:よく、海兵(海機、海経も)は「躾教育が行き届いていた」「海軍士官はみなジェントルマンだった。」と書かれた書物を目にします。
でも、読んでいくうちに気になるのが「言い訳するな。」の教育。
確かに、自己の失敗を隠す為の言い訳は組織にとっても、個人にとっても「害」です。
しかし、海軍ではその度合いがかなりきつすぎるように感じます。
つまり、何故下級者がミスしたのか?その時の状況は?等々のアンサーバック・フィードバックが無いように思えます。
これでは「情報の蓄積」面でどうであろうか?

2.生徒の身分:海軍3校(海兵、海機、海経)生徒の身分は「兵曹長の下、一等兵曹(後の上等兵曹)の上」でした。
海軍入隊以来、最下級の水兵から叩き上げて10数年のプロ並みの身分です。
これは、どうか。
英国に範をとった海軍ですが、英国はダートマス海軍兵学校生徒は基本的に皆、貴族か騎士階級、あるいはジェントリ−階級出身です。
対して、日本の3校生徒はその殆どが実家は「農業、商業、会社員」家庭の子弟です。
学業成績が優秀で入校したからといって、自分と同じような出身の下士官より上位とは...誤った「選民意識」になりかねない。事実、そういう面もあったそうです。
海兵の庸員(事務のおじさん、おばさん。)がいましたが、例えば食事の時、お茶を持ってきてほしいとすると、「おーい、烹水(ほうすい)、お茶持ってこーい!」と呼び捨てだったそうです。自分の親ほどの相手に対して。

3.カリキュラム:かなり盛りだくさんの種類を、詰め込み教育だったようです。
普通学(高校文系・理系科目)軍事学、訓育。この総合点が成績なのですが、大正中頃は座学は殆ど暗記教育で、その成績が総合点の70〜80%を占めたと言います。
丁度、50期前後。戦争中大佐〜少将だった人達です。ペーパーばかりに強いエリート達。
上記の躾教育と併せ、かなり画一的な教育しか出来ていなかったのではないかと。

米国では兵学校、士官学校でブレーンストーミングやケーススタディの手法が良く使われていたそうで、この方がより柔軟な思考を形成出来たのではないでしょうか。

(陸軍)
1.歴史、語学:陸士の歴史教育は、古い時代はどうだったか忘れましたが、昭和に入ってからは「国史(日本史)」「東洋史」の二本立て(地理もそうです)
語学はロシア語と中国語。ドイツ語もあったように思います。英語は何時の間にか消えて無くなりました。
仮想敵国に合わせたのでしょうが、なんとも安直です。

2.視野:これは、陸士期間中ではないのですが、卒業した後に原隊(各連隊)配属となり、基本的にそのまま。
初級士官のうちから狭い社会範囲しか知らずに育ちます。国外など、理解の外だったでしょね。遠洋航海のあった海軍の方が、まだまし、でした。

3.陸軍幼年学校:後、廃止されましたが、昭和の世をかき回した陸軍将校はかなりの比率で「陸幼」出身です。
入学資格は14歳から。中学2年生です。
その時分から社会と離れて純粋培養されます。事実、同じ陸士出身でも中学4修、5修、浪人で入学して来た人にとって、「陸幼出身者」は異様に見えたそうです。
また、軍教育に一日の長があるから、成績良かったそうです。つまり、将来の陸大入学者、エリート候補。
視野の狭い、凝り固まった観念の持主達が陸軍をミスリードします。

(共通)
*教育ではないのですが...
1.情報軽視:陸海軍ともに、情報軽視でした。
この場合の「情報」は戦術情報ではなく「戦略情報」
海軍では通信科は電波情報を扱う重要な部署ですが、その通信科士官を「腐れ士官の捨て所」と蔑視していました。
陸軍でも、作戦立案の総本山・参謀本部1部2課(だったかな?)は情報部門からの情報を全く信用せず、自分達の情報ソースのみを使って作戦立案していたそうです。
(良い例が、ノモンハンの惨敗)

また、日本では(ドイツもでしたが)成績優秀者は作戦畑に回されます。これが情報軽視の一因でもあるのですが、米国では陸・海軍共に、成績優秀者はまず、情報部門に配属されていました。
情報の重要性を叩きこんでから、部隊指揮を経験させ、ようやく作戦畑です。
この違い...

昭和の軍部の矛盾・ダブルスタンダードの解答ではありませんが、その根底がどういう経緯で育まれたのか、彼らが受けた教育もその一因ではないでしょうか。

これは jnfi67 さんの 504 に対する返信です

感服です
投稿者: dekopon346 (男性/橋の下(らしい)) 2003/ 1/ 7 19:56
メッセージ: 595 / 1810

実にわかりやすいお話ですね。なるほど、海軍の「言い訳するな」には、そういう弊害がありますね。ま、これは今の社会でも同じことがいえると思います。「黙々として働く」ことが美徳とされる所以でしょうか。

かつてドイツの元潜水艦将校の書いた本(書名は失念)に、「フランスでもドイツでも、海軍出身者は陸軍出身者より、シビリアンとしての生活に慣れるのが早い」といった記述がありました。親の世代に聞いても、「陸軍上がりは使い物にならない」は、当時の常識だったといいます。
教育ってある意味、恐ろしいものですね。

これは少しずれるかもしれませんが、かつて陸軍では「兵科以外の将校(軍医、技術者、経理など)は、兵科将校の鼻息で吹っ飛んでしまうほど立場が軽かった」そうですね。現在の会社でも、「営業マンがそれ以外の部署を軽く見る」傾向・・・いまはそれほどでもないかな・・が、ありますね。陸軍の遺伝なんでしょうか。しばしば登場する(笑)私の父など、まさにこのタイプで、「総務部に勤めている」ときけば、「ああ、できん奴だな」で、片づけてしまいます。

こうしたさまざまな要因が重なり合って、日本をミスリードしていったと思うと、なにか、寒くなってしまいます。

これは jnfi67 さんの 594 に対する返信です

太平洋戦争〜「考えて」(身内かばい合い)
投稿者: jnfi67 2003/ 1/ 7 19:57
メッセージ: 596 / 1810

ふぅ、やっと、一連終わります。
ご面倒でしょうが、お付き合いください(笑)

これは、自分で言っておきながら、あまり情報ストックが無い→明確に説明しづらい、のですが...一例を。

「ノモンハン事件」
有名な、日ソ両軍が内モンゴルの国境線争いで軍事衝突。最終的に日本側がボロ負けした戦いです。

この発端は上記通り、内モンゴルでの共産モンゴル(ソ連の属国)と満州国(関東軍の縄張り)の国境線の理解の差異から生じました。
ここで、日本側で異議を唱えていたのは関東軍司令部の参謀団です。
三宅坂の参謀本部も、日本政府も、その見解はソ連の主張と同じでした。
それでなくとも、参謀本部は日・独・伊三国同盟の前段階での段取りで気が狂ったように忙しい。今更そんな国境線争いを持ち込むな、の心境でした。

ここで問題児が1人登場します。「辻 正信陸軍少佐」
当時、関東軍作戦参謀。
当時の関東軍司令部は、司令官、先任参謀、同僚参謀、みな、辻の「シンパ」でしたので、辻は東京(政府、陸軍省、参謀本部)にだんまりで対ソ戦武力行使を立案します。
そして、「ノモンハン事変」
結果は大敗、惨敗。全滅、壊滅。
本来であれば辻はおろか、関東軍司令部全員、軍法会議で銃殺刑が至当なのですが...
彼らは一時的に閑職に回ったものの、直ぐに復帰。辻などはその後参謀本部、南方軍高級参謀等々を歴任。
のうのうと戦後まで生き残ります。残りの者も似たり寄ったり。

では、誰が責任を取ったのか?

最前線で無茶な作戦指導の下での戦闘指揮を強要され、部下をみすみす失う状況に追い込まれ、それでも勇戦し続けた部隊指揮官達です。
彼らが、軍法会議(無論、秘密法廷)で銃殺されました。

何故か?
「辻や関東軍司令官、参謀達は陸大出身者で、天保銭組(陸大恩賜卒)もいる。裁く参謀本部の参謀も皆、陸大・陸大恩賜組である。辻達は「身内」である。対して、部隊指揮官達は陸大すら入っていない。連中は「身内」ではない。」

こう言う事です...

霞ヶ関でも、今日ですら見かけませんか?こういうのって...

これは jnfi67 さんの 594 に対する返信です

>興味深く拝見しました(教育編)
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 7 22:54
メッセージ: 597 / 1810


jnfi67さん

予告されていた、「教育編」興味深く拝見しました。

>カリキュラム:かなり盛りだくさんの種類を、詰め込み教育だったようです。
>ペーパーばかりに強いエリート達。
>上記の躾教育と併せ、かなり画一的な教育しか出来ていなかったのではないかと。

今の日本と余り変わりないようですね。要するに一方通行の教育。最近言われている「ゆとり教育」にしても、その点については余り改善が見られないようです。

>米国では兵学校、士官学校でブレーンストーミングやケーススタディの
>手法が良く使われていたそうで、この方がより柔軟な思考を形成出来た
>のではないでしょうか。

アメリカが典型的だと思うのですが、生徒に考える訓練をさせているところが、自由な発想を生むことにつながると思います。特に第2次大戦中は、テクノロジーや戦術がめまぐるしく進歩している時代なので、ここの違いは大きいと思います。
現代日本にしても政府や大企業は、ITに立ち遅れていました。救いはi-modeを生んだ松永真理さんのような方が民間にいたということです。彼女もまた、企業の真ん中に座っていた人ではなく、いろいろな企業を渡り歩いていたようですが。

先生の側から見れば、一方通行の教育は楽でよいのではないでしょうか。お互いの意見をぶつけ合う授業だと先生の能力の差が顕著に現れてしまう、未熟な教師は底の浅さが生徒に見抜かれてしまう、のではと思います。

当時でも、心ある人は生徒に考えることを訓練させたようです。例えば小澤治三郎は1931〜34年頃海軍大学校で教官をしていましたが、「固着した海戦要務令に囚われず、独創的で斬新な戦法を研究せよ」と指導したそうです。海戦要務令は当時の艦隊戦闘の虎の巻、といったもののようです。

だいたい教科書というものは、書かれた時点から古臭くなっていくものであり、その教科書に執着することは、時代から取り残されることになると思います。
今の時代でも同じ轍を踏むというのは進歩のないことですね。

これは jnfi67 さんの 594 に対する返信です

>興味深く拝見しました(身内編)
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 7 23:11
メッセージ: 598 / 1810


身内かばいあい編も興味深く拝見しました。

>霞ヶ関でも、今日ですら見かけませんか?こういうのって...

霞ヶ関には言うに及ばず、日本国中はびこっています。

政府、大企業といった組織には、「官」と「民」、「中央」と「地方」、「本社(本部)」と「現場」等といった関係が存在し、 権限は「左側」が独占しながら、責任を「右側」に押し付け、おいしいところは「左側」が持っていくという構図になっています。

>最前線で無茶な作戦指導の下での戦闘指揮を強要され、部下をみすみす失う状況
>に追い込まれ、それでも勇戦し続けた部隊指揮官達です。
>彼らが、軍法会議(無論、秘密法廷)で銃殺されました。

私は、思わずこれを読んで、無茶なノルマを与えられ、成果未達でリストラされたり、会社ぐるみの不祥事の責任を背負って逮捕されたり自殺したりする、現場の中間管理職の姿が目に浮かびました。

どうでしょう、どうも日本は当時と本質的には変わっていないような気がします。同じ過ちを犯すことはないとは思いますが、同じ発想に基づく違う過ちを犯しそうな気がしてなりません。

これは jnfi67 さんの 596 に対する返信です

>ちょっと教えて(便乗ですが)
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/ 8 0:06
メッセージ: 599 / 1810


>日英の空母や、エセックス級以前の米空母は飛行甲板の中部・後部の中心線
>沿いに設置されていました。

エセックス級後のミッドウェー級も就役当初は、飛行甲板の中心線上にエレベーターがあったと記憶しております。後の改装で近代空母の特徴である、舷側エレベーター、スチームカタパルト、滑走路が2本というか斜めについた形(エセックス級も同様の改装を受けたものがあります)になったと思います。従って就航当初から近代空母の形態だったのはフォレスタル級が最初でしょうか。

これは jnfi67 さんの 591 に対する返信です

恐縮です
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/ 8 0:42
メッセージ: 600 / 1810

jnfi67様、s1_9150242様、過分のお言葉恐縮です。

>エセックス級のオープンハンガーは、普段航行中は「シャッター」を降ろして密閉式と同じ状態にします。

ああ! うろ覚えですが、従兄も私にプラモを見せながら、そう説明していました。(私はアメリカの艦船については、まだまだ無知なのです。)
でも、大鳳なんて、いくら重装甲と言っても、あのように飛行甲板と船体がピッタリくっ付いている構造だと、実際とは別に水平爆撃で飛行甲板をブチ抜かれ、艦内に徹甲弾を喰らっても、お陀仏だったのでは、と思えます…。

これは jnfi67 さんの 591 に対する返信です

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