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潜水艦
投稿者: jnfi67 2003/ 1/21 12:16
メッセージ: 801 / 1888

気が付けば、潜水艦ネタになっていますね。;;

(読んでいるうちに、勝手に手がKBを〜〜...《笑》)

で、「潜水艦」ですが...
1.潜水可能水上艦
第2次大戦時の潜水艦は(現在の原潜除き)「潜水可能水上艦」とも言うべき艦種でした。
潜水艦の動力は「ディーゼル機関」「バッテリー駆動機関」の2本立てです。
通常はもっぱらディーゼルで浮上航行します。水上速力は16〜22ノット程(日本の潜水艦は水上速力は比較して高速でした)目的地まで殆どを浮上航行し、攻撃時も、戦争中期辺りまではもっぱら浮上しての攻撃でした。
(Uボートなどは、そんなイメージ無いでしょうが、実際は90%が浮上した状態での砲雷撃です)
潜航時はディーゼルが使えない(燃焼酸素が有りませんから)ので、ディーゼル使用時に蓄電したバッテリーでモーターを動かし、水中航行しました。
(水中ではせいぜい6〜9ノット)
しかも、駆動モーターを動かすバッテリーは水中巡航速度(4,5ノット)で精々30分ばかり。
潜水艦長はどこの国でも潜航時は「ここは贅沢に6分間6ノット。ここは行き足も付いて潮流もあるし10分間3ノット」と、バッテリー容量との戦いでした。
潜水艦が潜航するのは、敵に発見されて逃げ延びる為の「緊急非常手段」でした。

2.単独行動
基本は、これです。
Uボートのヴォルフパック(群狼作戦)は有名ですが、大掛かりなヴォルフパックは大戦中2,3度しかしていません。
他は大抵単独行動。精々、付近航行中の僚艦がいれば、共同攻撃でした。
なぜか?大部隊が集結するには無線連絡しか有りませんし、そうすれば傍受される可能性も有ります。
無線を使うには浮上する必要がありますし、浮上すれば発見される恐れがある...
必ずしもヴォルフパックは良い事尽くめではなく、事前の情報確認・綿密な行動策定が必要でした。
第2次大戦でのUボート・エースの独潜水艦長達も、大抵単艦行動で戦果を上げています。
スカパ・フローで英戦艦「ロイヤル・オーク」を撃沈した時も、単艦侵入・単艦攻撃でした。

3.各国潜水艦特徴
は、やはり結構国民性が出ているように思います。
日米独の潜水艦では...
・米潜・性能は凡庸。ただし、大量生産性を考慮している。
居住性についても枢軸国潜水艦に比べ、格段に良い。居住区と食堂が分かれているのは米国潜水艦のみ。(2人でベット(ボンク、と言う)1つなのは同じだが)
また、騒音防止処置は最も進んでいた。
・独潜・性能的には一番使い勝手があるか。米潜よりは上。
騒音防止にも(米についで)対応されていた。また、ブロック工法を用い、大量生産にも向いていた。
居住区は狭苦しい(多分、一番)が、除湿を行い乗員の疲労蓄積を押さえる処置がなされていた。
・日潜・航洋性、航続力、攻撃力は恐らく当時世界最強。居住性、騒音防止処置、生産性は恐らく世界最弱。両極端であった。
搭載していた酸素魚雷は、36ノットで4万m・40ノットで3万m程(だったと記憶)で、距離も炸薬量も他国の2倍近い。(距離は2倍以上)
反面、居住区はそのまま「居住苦」であり、暑い・湿気が高い・息苦しい。
騒音は、まるでオーケストラが演奏しながら航行しているような程。
生産性も諸国に比べ、劣った(構造が凝り過ぎ)
「攻撃には強いが、一撃必殺が交わされると、即、海の藻屑」であった。

4.その他
「シュノーケル」:水中駆動を蓄電池で頼る潜水艦ですが、潜航しつつディーゼルを使う事が出来ます。「シュノーケル」です。
これにより、ある程度の浅深度(12,3m)で固定してシュノーケルを洋上に突き出し、空気を補給。機関への燃焼酸素と、乗員の為の空気、気蓄室の酸素補充、バッテリーの充電、を同時に行いました。
元々はオランダ海軍が戦前に開発しました。
ただ、このシュノーケルもレーダーの発達により、大戦中期には捕捉されるようになり、あまり有効では無くなりました。
(特に太平洋では透明度が大西洋より高い為、浅深度では上から丸見えだったとか)
「新機関」ディーゼル/電池モーター駆動によらない新機関を各国共に試行錯誤していました。
大戦中に曲がりなりにも回答(自分なりの)を出したのはドイツ。
「ヴァルター機関」搭載の試作艦を開発しました。(原潜は大戦後)
この機関は、過酸化水素水を触媒とするものです。駆動用酸素が必要でした。従ってクローズドサイクルではありません。
かつ、過酸化水素は取り扱いが難しくデリケートで、ちょっとした漏洩で爆発事故を起こしました。
戦後、英海軍もこのヴァルター搭載艦を建造しましたが、ドイツ同様爆沈事故が起こり、やがて通常動力(ディーゼル/バッテリー)と・

これは s1_9150242 さんの 784 に対する返信です

海底空母
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/21 12:27
メッセージ: 802 / 1888

>URLから・・連合軍が驚嘆した規模と性能―攻撃機「晴嵐」三機を搭載、全長百二十二メートル、排水量五千五百トン、速力二十ノット。米本土東海岸を奇襲攻撃するために建造された超大型潜水艦伊400。日本海軍が起死回生の悲願をこめて構想したパナマ運河攻撃計画の全容と、"海底空母"と呼ばれた悲劇の潜水艦の・・

・・・すごいですね!米本土奇襲攻撃の為が目的で作られたなんて また海底空母と呼ばれていた・・・ウーンうまい表現 カタパルトで飛ばす? カタパルトとはゴムの強力なもんなんでしょうか パチンコみたいなもの(すずめ打つアレ)

「晴嵐」胴体の日の丸を塗りつぶし・・はありそうですね 敵か見方か識別は難しかったと思います 相手のマークをつけることは国際法違反なんですね 最近選挙なんかで陣営の色分けするでしょう 赤とか青とかで 右のポケットに赤のハンカチ 左のポケットに青のハンカチ持ってうろうろしている運動員見かけません? 始めて見た時開いた口が・・・ちょっと脱線(^^)

>攻撃隊指揮官の有泉龍之介大佐(第一潜水隊司令兼第631航空隊司令)が、「私は永遠に解任される事の無い司令である」という遺書を残し、イ401艦内で拳銃自決しています

やはり 艦と共に運命を共にされている ほんとうの意味で命をかけて仕事をする その精神は尊いものであると思います その万分の一でも自分にあったらどんな仕事でも成功するがなーとフッと思いました

これは honkytonk_2002_x さんの 799 に対する返信です

潜水艦ネタ
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/21 12:46
メッセージ: 803 / 1888

jnfi67 さん潜水艦決定版とも言える投稿ありがとう それにしても勝ってに手がKBに? ひょっともしてブラインド・タッチ? あれだけ打ち込もうとすると30分ぐらいかかりそうです(笑い

攻撃の時のイメージはずいぶん違ったものです 浮上していてなんですね そういえば 角度を少しずつずらし3本の魚雷を次々発射して あわてて潜行するシーン見たことが(映画)確かに飛行機が天敵だったでしょうね 上から見ると影が見えたと思います しかし飛行機からの攻撃はできなかったでしょうね(爆雷は駆逐艦ですね)

>日潜・航洋性、航続力、攻撃力は恐らく当時世界最強。居住性、騒音防止処置、生産性は恐らく世界最弱
居住区はそのまま「居住苦」

↑ユーモア 座布団3枚です(^^)

これは jnfi67 さんの 801 に対する返信です

カタパルト
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/21 13:16
メッセージ: 804 / 1888

>カタパルトとはゴムの強力なもんなんでしょうか パチンコみたいなもの(すずめ打つアレ)

あ、軍艦の上から水上飛行機を発進させる為のカタパルトは、実際にごく初期のものは、ゴム・パチンコの原理だったと、何かで読んだ記憶がありますヨ!
後には、火薬を爆発させて、その勢いで飛行機を発進させるタイプに変わりました。(その光景は、たまに昔のニュースフィルムがテレビで流れる事があると思います。)
そういう発進の際には、もちろん大変な危険が伴いますから、水上機搭乗員が一度カタパルトから「ポン!」と発進する際には、「ポン六」と言って、一種の危険手当が付いたらしいです。(「六」は6円の事か60円の事か、ど忘れしました。) ですから、発進回数が多いと、その分その月の給料が多い、という事にはなりました。

海岸を利用した基地などでは、もちろんカタパルトからではなきく、直接水上を滑走して離水していました。

因みに、「晴嵐」はアメリカに持ち運ばれたものが、現在立派に復元されている筈です。

これは s1_9150242 さんの 802 に対する返信です

ASW(対潜水艦戦)
投稿者: jnfi67 2003/ 1/21 13:19
メッセージ: 805 / 1888

第2次大戦時の、それも欧州方面のASWで良く誤解されがちなのは「連合国がドイツのエニグマを解読し、Uボートの行動が筒抜けだった。その為、Uボートは次々に沈められた」と言う事です。
ちょくちょく目にしますが、これは回答の一つではありますが、全てではありません。

エニグマ自体は戦前、ポーランド軍情報部によって構造・パターンが解析されています。その後の軍用・外交用・政府用改良型エニグマも、英国に亡命したポーランド情報機関から引き継いだ英国が継続してその都度解析されています。
その意味では軍用エニグマでのUボート情報は筒抜けだったのですが...
ただ、現在でもそうですが、潜水艦は単艦行動が基本ですし、一度出港するとその行動はかなり艦長の判断に委ねられます。
したがって、エニグマ情報だけではUボートの捕捉は不可能に近い。

では、どうして連合軍はUボートを最終的に圧封できたのか?
それが、現在なお続くASW(対潜水艦戦闘)の確立です。
対潜哨戒・攻撃機(陸上機または水上艇)、対潜哨戒艦艇、陸上通信傍受の三位一体に、パッシヴ・アクティヴソナー、MAD、対潜哨戒飛行パターン(クローバーリーフ)、レーダー...
大量のH/Wを、柔軟なS/Wと組み合わせ、海域をくまなく、しらみ潰しにしたからこそUボートは活動海域を狭められ、追い込まれて捕捉され、爆雷や、もっと効率の良いヘッジボック等の対潜攻撃兵器で沈められました。

もっとも、米国の大量生産体制・技術力が背景にありますが。

よく、ナチス・ドイツ海軍は「潜水艦戦のプロ、対潜水艦戦の素人」と言われます。
実際、連合軍への対潜水艦戦はお寒いの一言です。
現在のASWは「狩る方」の視点だけでなく、「狩られる方(潜水艦)」の視点も解っていないと、捕捉攻撃出来ません。
潜水艦側は、対潜部隊の思考を読もうとするし(相手の立場で)、対潜部隊は潜水艦乗りの立場で作戦立案します。
どちらが優位とは言えず、ほんの少しの差で勝敗が決まるようなのが現在のASWです(技量・装備が拮抗している場合)

日本の大戦中のASWは.....
.....です。;;
戦争中期まで、まともにASWを意識していませんでした。
「駆潜艇」という、大半が「特設」の字がつく、漁船改造の艇で対潜哨戒していた程度...中期以降、潜水艦・航空機の脅威から船団護衛を行う為の「海防艦」が急造・配備されましたが、個艦性能は英米の対潜艦より優れていましたが、そのASWの認識不足(魚雷発射管載せたり)と経験の蓄積の無さ、探査装置の工作精度のばらつき、等々がたたり、また既に制空権が奪われた海域でのASWとあっては、対潜水艦戦闘よりまず、自艦を敵機から守る事が先決になり、実力発揮は出来ませんでした。
惜しむらくは、海上護衛総隊設立が既に末期状態になってから設立されたように、日本海軍の(大半の)意識改革(認識不足部即)の遅れ、でしょうか。

*MAD:地磁気探査装置(とでも言うのかな?)潜水艦の艦体が地磁気に及ぼす影響(地磁気の乱れ)を探知し、潜水艦を捕捉する。現在でも主流。最初に開発、実戦配備はなんと日本海軍。MAD搭載機も日本海軍の「東海」が最初。
*ヘッジボック:多連装散布小型爆雷、かな?
英海軍が最初に開発・搭載。通常24連装で同時に発射。艦前方への発射が出来る。
何かに接触しなければ、そのまま沈む。
どれか1発でも接触・爆発すれば他の23発も同時に爆発する。
従来の爆雷に比べ小型で炸薬量も少ないが、広範囲をカヴァーできる。また24発同時爆発は潜水艦にとって被害個所が多発する、悪夢である。

これは jnfi67 さんの 801 に対する返信です

jnfi67さん、ホンとに詳しいですね
投稿者: crub4o 2003/ 1/21 13:49
メッセージ: 806 / 1888

>では、どうして連合軍はUボートを最終的に圧封できたのか?

「Uボート・コマンダー」ペーター・クレーマーに、
「HFDF、ハフダフ」の件が掲載されてますね。 無線方位探知機ですか?
Uボート群はデ−ニッツ提督に自らの攻撃位置を常に報告しなければ
ならなかったそうですが、英国海軍はこの「報告癖」を見抜いて
コンボイの主要護衛艦艇に無線方位探知機を搭載しはじめたのが
1942年頃じゃないですかね。
攻撃の為(僚艦の呼集)に、デーニッツに報告すると、忽ち探知されて
護衛艦艇が襲い掛かってきたそうです。
いい加減、この因果関係に気が付いていいものなのに、結局ドイツ海軍は
この癖を完全に中止できなかったみたいです。

ある書籍に、このことについて次のように書かれているのを読みました。
「対Uボート戦に、レーダーやオペレイションズリサーチや何やかやが
役立ったと言う話は、レーダー業界やオペレイションズリサーチ業界には
商売繁盛のうれしい話だろうが、真実は巧妙に覆い隠されている。
敵のお喋りにじっと聞き耳を立てていた事が最大の原因である。
ただ、次の対潜水艦戦に備えて、次の敵も同じ凡失をやらかしてくれる
事を期待して、真実には言及されないのだ」

これは jnfi67 さんの 805 に対する返信です

>>ノーチラス号
投稿者: crub4o 2003/ 1/21 13:55
メッセージ: 807 / 1888

ジュール・ヴェルヌの
「海底2万リーグ」に登場する
あの有名なネモ船長の潜水艇が元ですね。

「ナウティルス号」

ネッド・ランドやコンセイユ等の
愉快な登場人物、今でも想い出します。

これは o_sole_mio00 さんの 796 に対する返信です

>狼群戦術
投稿者: marujee 2003/ 1/21 14:54
メッセージ: 808 / 1888

U-boat一隻で護衛船団を攻撃した場合は護衛艦から集中攻撃を受ける危険性が大きい。
開戦当初のドイツ本国からの出撃では日数がかかり、U-boat自体の隻数が足らないため、単独行動をとっていたが、40/6、フランスを占領し、大西洋に近いブルターニュ半島(ブレスト・・・)に潜水艦基地を移動し、U-boatの数もそろってくるとドイツ潜水艦隊司令官デーニッツ提督は自分がWW1 のU-boat艦長時代から暖めていた狼群戦術を採用することにした。この戦術は敏捷で強力なU-boatで船団を囲み、集中して攻撃を加える方法だ。狼が集団で獲物を襲うように護衛艦が一隻のU-boatの攻撃に気を取られている間に別のU-boat が船団の中に紛れ込んで商船を次々と攻撃する戦術だ。

通常の狼群戦術は・・・
@船団の進む予想位置に船団の進路に直角に1列に並べてU-boat を配置する。U-boatは指示された場所に到着したら司令部に連絡をしておく。
AU-boatが船団を発見したら潜水艦司令部に位置、速度、隻数、護衛艦の種類、数などを報告し、すぐには攻撃しないで船団を追跡する。
B司令部は近くのU-boatに船団の未来位置を推定し移動命令をだす。
C現場にU-boat が到着すると司令部に報告、数がそろったところで司令部が攻撃命令を出す。
DU-boatの攻撃は夜間で護衛艦の警備を高速ですり抜ける。
EU-boat艦長は船団中の大型船を狙って接近、装填されている魚雷を発射
F全速で脱出、護衛艦に捕捉されると急速潜航で回避する。

この方法でドイツは効果を挙げたが、41/夏にはイギリスはU-boatの使用する暗号(ウルトラ)を解読し、事前にU-boatの哨戒地域を避けて航行するようにしたため、ドイツ側の戦果は減っていった。ドイツ側もバルバロッサ作戦開始によりイギリスのノルウェー上陸を警戒したり、地中海での作戦を重視(ロンメルのアフリカでの作戦)していたが(ヒトラーの意向によるもので(「デーニッツはU-boat は広い大西洋で実力発揮できると反対していた)、アメリカが参戦すると米大陸近辺で船団航行していなかった商船を攻撃し、戦効を挙げた。しかし船団行動し、米大陸沿岸の空からの護衛も厳しくなると再び”大西洋の戦い”へと戻っていった。天候が悪い冬の間(12〜2月)は別としてこの頃には暗号コードを変え、U-boatの隻数も増えた42/秋〜43/3月には、大西洋における狼群戦術で50万トン/月以上の効果を挙げていた。しかしイギリス側も対策を講じていた。43年には護衛艦には殆どU-boatを検知できるセンチ波レーダーを装備し(これはU-boatの逆探が効かない)、43/3には再び暗号解読に成功、4月以降はU-boatの被害が再び大きくなり、43/5にはデーニッツは狼群作戦の中止を命じた。43/夏にはB-24による上空警護も行い始め、船団には護衛空母をつけるようになった。もうこうなるとU-boatは今までの狩人の立場から追いかけられる立場へと変わっていった。

これは s1_9150242 さんの 787 に対する返信です

U-Boat
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/21 14:54
メッセージ: 809 / 1888

「戦争中私を真から恐れさせた唯一のものは Uボートであった・・広い大洋の中にある生命線 イギリス近海は彼等によって脅威を受けている このUボートとの戦いの方が「バトル・オブ・ブリテン」といわれた戦いよりもっと心配であった」・・・チャーチル

すごいぞ! Uボート!

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

>>狼群戦術

投稿者: s1_9150242 2003/ 1/21 15:41
メッセージ: 810 / 1888

マルジーさん詳しくどうもです(^^)
投稿したら 前にあって トンチンカンになりすみません

私が知っているのでは(オイ・オイ大丈夫?)やはりあともう一歩というところで「空母」が現われ戦局一変したと 英国の取った手は 普通の商船を一部改造しその小さな飛行甲板に2〜3機の戦闘機を積み始め空中からの 発見と攻撃が可能になったと読んだことがあります

マルジーさんご指摘の暗号もれはやっぱりここでもかーと英米の暗号に関する取り組みの先進さに只残念の一言です それにしても外国の多数の艦を制御しながらの戦術には感心しきりです

これは marujee さんの 808 に対する返信です

ほんとですか?>ホンキーさん
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/21 16:05
メッセージ: 811 / 1888

>、「ポン六」と言って、一種の危険手当が付いたらしいです ですから、発進回数が多いと、その分その月の給料が多い、という事にはなりました


まるで軍隊も金しだいですね あはは(すみません不謹慎?)
でも何かこれ人間くさくっておもしろい(もちろん搭乗員は命がけですから・・でもおもしろい)
こんな話が聞けるのもこの掲示板のおかげです ありがとうございます

今U-bout創立?者のデー二ッツに興味を持ちました 彼は天才かも知れないと・・

これは honkytonk_2002_x さんの 804 に対する返信です

「ポン六」
投稿者: jnfi67 2003/ 1/21 16:53
メッセージ: 812 / 1888

確か、水上艦艇搭載機の搭乗員のみ、手当てされていたようですね。
1回6円。(大体今で3万円ほど?)

実際、カタパルトで射出されると強烈なGによりブラックアウト(血液が足元に溜まって瞬間視覚障害と失神を起こす)で、4〜5秒で回復しないと海面に激突する、と読んだ記憶があります。

ついでで申し訳ないんですが、陸軍航空隊は忘れましたが、海軍航空隊での「飛行加俸(飛行手当)」は常時機上勤務者(搭乗員)が、士官月額60円、准士官月額40円、下士官月額30円、支給されていました。

先ほど晴嵐の話が出ていましたが、例えば伊400の士官搭乗員がアメリカ本土空襲を行ったと仮定して(かつ、生還したと仮定して)それが大尉だとすると...
・海軍大尉月俸195円(年俸を割った)
・飛行加俸月額60円
・戦地加俸月額90円(月俸の45〜50%を支給された)
・航海加俸日額6円50銭(地域により違う)×30=195円
総額約540円。今の貨幣価値で約270万円ほどが「月給」として支給される事に...

戦前など、母艦の艦載機乗りの若手独身パイロット(士官、下士官問わず)は「手当て、手当てで、札入れがパンパン」だったそうで...

いいなぁ...そんなに給料貰ってみたい...(魂の呟き)

これは s1_9150242 さんの 811 に対する返信です

れ:crubさん
投稿者: jnfi67 2003/ 1/21 17:02
メッセージ: 813 / 1888

>「対Uボート戦に、レーダーやオペレイションズリサーチ〜(中略)〜次の敵も同じ凡失をやらかしてくれる
事を期待して、真実には言及されないのだ」

これ、似たような事を英国がやってますよねぇ...
大戦後、エニグマを欧州やアフリカ、中東、中南米なんかに大量に売り捌いて。
解読してる事を知らん振りして。
お陰様で、エニグマ(機械式暗号機)に代わる存在(コンピューターシステム)が出回り、エニグマが役に立たなくなた時点で公表したと言う...それまで、情報は筒抜け。
さすがは「ナイフと外套」仕事の本家本元!ですねぇ...

これは crub4o さんの 806 に対する返信です

お金、お金…☆
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/21 17:05
メッセージ: 814 / 1888

いやあ、人間なのですし、やはり「ご褒美」が嫌いな人はいないでしょうしね。
逆に、僕が「だめだこりゃ」と思うスローガンは、「欲しがりません勝つまでは」ですね。
せめて、「この苦境を乗り越えれば、何か素晴らしいものが待っている」という事を想像させるスローガンにしなけりゃ、「ガマン」だの「一生懸命」だのって、言うは易し、行うは難し、ではないでしょうか?(「一生懸命」も、原語では「一所懸命」ではなかったのでしたっけ?)
あくまで私見ですが、「国威発揚」とか「犠牲的精神」は、日頃からそれなりに国家が国民を世話していないと、国民も国家に恩を返そうという気にはならないように思えます。(ちょっと言い過ぎかしら。)

…そうそう、「お金」と言えば、(例によって陸軍の事はとんと疎いので他の方にお譲りしなくてはなりませんが)海軍では「航海加俸」といって、艦隊勤務で航海すると、それに手当てが付きます。また、航空は手当ても破格であったと思います。(実際の額は知りませんが。)

エピソードをいくつか…

1.転勤(山辺雅男少佐【海兵64期】)
海軍では転勤の際、やはり転勤の為の支度金が出ます。
ところが、概して酒の席が大好きな海軍士官は、けっこう行き付けの店にツケがあったりなんかします。そこで、「よっしゃ転勤だ! 手当てでツケを払って、ついでにワイシャツの一枚も仕立てておくか…」などと獲らぬ狸のナントカをしていると、転勤先は隣りのブイに係留している船だった!なんていう事もあったようですヨ。(つまり、何歩か歩けば転勤ですから、転勤手当てゼロ!)

2.小福田租(みつぎ)中佐(海兵59期)
元零戦乗りの角田和男中尉(乙5期)によると、上官の小福田氏が中尉だか大尉だかのとき、「搭乗員はいつ事故などで死んでもいいように、フンドシは毎日使い捨てろ。そして、飛行帽にも香水をたっぷりふりかけて、顔にもクリームを塗ったりして、臭わないようにしておけよ。そのために我々搭乗員は高い手当を貰っているんだ」と訓示したら、部下達は「オー!」と喜んだとか。ところが小福田氏は上司に叱られたのか、その後しょんぼりと「あの発言は撤回する」と訓示し直したとか。

3.横山保中佐(海兵59期)
「海軍というのは有り難いところで、給料日前に財布がカラッポになっても、水交社(海軍士官の互助クラブのような組織)の食堂に行けば、とりあえずツケでメシが食えたものだ。」

4.名前失念
ある所帯持ちの海軍士官が、年中部下達に気前良くおごったりしていたら、家計破綻。給料を前借りする事にしました。理由は、「新しい軍刀を拵える為」(もちろんウソ。) 翌月の給料袋には…なんとマイナス金額を書いた明細書が一枚! 「あちゃー…」
仕方なく、また前借り。理由はまたしても「新しい軍刀を拵える為」。それを何ヵ月だか繰り返したところ、ある時前借り願に判を捺す上司が、「オホン。君は軍刀を何本作るつもりかね?」と。

…しかし、以上のうち「4」などは、今時なら市民オンブズマンにバレたら大変ですヨ。

これは s1_9150242 さんの 811 に対する返信です

> 「ポン六」当時の貨幣価値
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/21 17:11
メッセージ: 815 / 1888

出ましたーjnfi67>さん実は以前から聞きたかったことなんです
今と とーじの貨幣価値の違い こうやって給金で考えると解りいいですね
う〜ん 軍人さんは高給取り・・仕事柄(ヒミツですが^^)昔のものに出会うことが多いんです そうするとよく ト〜時のお米1升の値段とかお酒の値段なんかが書いてあることが・・

>戦前など、母艦の艦載機乗りの若手独身パイロット(士官、下士官問わず)は「手当て、手当てで、札入れがパンパン」だったそうで...
いいなぁ...そんなに給料貰ってみたい...(魂の呟き)

↑私も 艦載機乗りの若手独身パイロットになりたいです(^^)←おなかが出ているんじゃね
今日は今から会議です また帰ってから読むの楽しみです!大阪出張はあさってになりました

これは jnfi67 さんの 812 に対する返信です

>札入れがパンパン
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/21 17:33
メッセージ: 816 / 1888

jnfi67様

いやあ、詳細な資料を有り難うございました。初めて給与の細かい内訳を知る事が出来ました☆

>伊400の士官搭乗員がアメリカ本土空襲を行ったと仮定して

そうか…「もし」実施して、生還したとしたら、そりゃあ、もう思い残す事も無いぐらいに満ち足りた気分でしょうね。

しかし、何と言っても死と隣り合わせの勤務ですから、その額もむしろむべなるかな、と思えます。

何度も私が引用した角田和男氏も、フィリピンで特攻隊に編入され、一応は直援任務のみで終わっていますが、「こうなったら、どうせ死ぬなら特攻以外では死にたくないと思った(直援で戦死しても体当りと同じ扱いをしてもらえる)。特攻戦死と通常の戦死では、妻が受け取る年金も額がまるで違うからだ」というような事を言っておられます。
何とも切ない話ではあります。

これは jnfi67 さんの 812 に対する返信です

どん亀その他
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/21 18:02
メッセージ: 817 / 1888

余談ついでに…

潜水艦がらみで一つ。

日本の潜水艦は「攻撃性能は恐らく最強、居住区は居住『苦』」という痛快なお話しも賜ったところで。

日本海軍も、潜水艦勤務は他の艦種よりも体力消耗が激しいという理由で、一作戦終わったら、乗組員を温泉旅館などに逗留させ、なるべく動物性蛋白などを多く摂らせようとしたらしいですが、日本人はやはり日本人。
陸(おか)に上がって食べたいものは、「お茶漬け!」。それも、沢庵、白菜漬、梅干し、たらこ、塩鮭などと一緒に…。これでは、確かにマッチョにはならないでしょうねえ…。

居住性と言えば…、飛行艇を例に挙げても、日米の潜水艦の比較に似たようなものを感じました。
二式大艇は大戦中世界最高と言われていますが、さて居住性はと言うと…?
終戦直後米軍に二式大艇を引き渡す為に操縦した801空飛行隊長日辻常雄少佐(海兵64期)によると、乗り込んできたアメリカの士官がタバコに火を付けようとしたので、危ないという意味で、「バーン!」とジェスチャーしてやったという逸話もありますね。
日本の飛行艇は畿内はつねにガソリンの臭いがして、どこも油っぽかったとか。
乗り込んできていきなりタバコを吸おうとするなど、おそらく米海軍のPBYなどは機内喫煙もOKなぐらい、居住性も良かったのでは?と想像します。

これは honkytonk_2002_x さんの 816 に対する返信です

特攻戦死
投稿者: jnfi67 2003/ 1/21 18:39
メッセージ: 818 / 1888

>何とも切ない話ではあります。

全く、そうですね...
私の父の友人に、戦時中海軍予備飛行学生(第14期)だった方がいるんですが...
その方から昔に聞いた話も、そんな感じでした。
その方は元海軍少尉の特攻隊員だった方で、敗戦が後10日遅れてたら特攻出撃していたそうなんですが。
その方の隊(特攻隊長だったそうです)に若い予科練出身の部下達がいて、何気無しにどうして特攻を志願したのか聞いたそうです。
大抵は勇ましい答えだったそうですが、一番若い部下(20才前後の一飛曹だった、と言っていました)の答えが...
「特攻戦死すれば、二階級特進で飛曹長になれます。そうすれば、年金も飛曹長の年金額が貰えます。下士官とは全然違います。自分は長男で、家には両親が幼い弟妹達を抱えてるんです。」と...

確か、私が大学生の時だったと記憶しています。
それを聞いて、かなりショックを受けました。
自分はどうだろう?自分の死によって家族がなんらかで救われる(その死に対する悲しみは置いておいて)
その時、その若い、自分の同年位の一飛曹の様に志願できるか...?

当然、社会の価値観(表面上とは言え)の違いや、時代背景が有るとは言え...

多分、出来ないでしょう。

特攻隊員の遺稿集などを読むたび、その内容の勇ましさ、悟りきった文面を読むたび(彼らは20前後からせいぜい20代半ばです)その文面の奥の声が聞こえてくる気がします。

「俺だって、もっと生きたいんだっ!」

敷島隊指揮官・関 行雄大尉(海兵70期)の言葉。
「僕は日本のためとか、海軍のために死ぬんじゃない。最愛のKA(奥さん。大尉は新婚だった)の為に死ぬんだ。彼女を敵から守る為に死ぬんだ...」

或る海兵出身の特攻隊指揮官(氏名・海兵期数失念)の、突入直前の最後の無線通信。
「帝国海軍の、大馬鹿野郎っ!」

これは honkytonk_2002_x さんの 816 に対する返信です

米潜水艦>トピ主さん、infiさん
投稿者: marujee 2003/ 1/21 19:03
メッセージ: 819 / 1888

>すごいぞ! Uボート!

Msg783で私が言いたかったのはそのすごいU-boatでも出来なかった海上封鎖をアメリカ潜水艦隊が日本に対してはやり遂げたということだったのです。チョット皮肉っぽいかもしれないが其れだけ日本の海上防衛能力がひどかったということにもなりますから・・・。

>日米独の潜水艦では... ・米潜・性能は凡庸。(msg801)

アメリカの潜水艦は凡庸と評価されていますがそうでしょうか?
同じような目的のものを較べてみると

          排水量 速力     魚雷発射管   砲+機銃
U-boat \D型  1804t 19.2/6.9kt 4TT(B),1TT(S) 88mm+20mm 21000海里
USN  Gato型 2410t 20.2/8.7kt 6TT(B),4TT(S) 76mm     11000海里
JIN   I 型  2584t 23.5/8kt 6TT(B) 140mm+AAgun   14000海里

でアメリカのほうが速度も速く(日本のI号よりは劣るが・・・)魚雷発射管もI号よりは(多い)多いが航続距離が少ない、レーダーはセンチ波のレーダーを備えていた。航続距離は日本のRO号クラスですがドイツの最もよく生産されたZc型でも8500海里で潜水艦母艦から給油してもらってあれだけの活躍をしたのだから制空権を持っていたアメリカとしてはあまり問題なかった? 総合的な性能としては良いほうにはいると思いますが・・・。

そうでないと凡庸な米潜水艦にやられた帝国海軍は可哀相?です。

 

これは s1_9150242 さんの 809 に対する返信です

マイナス金額を書いた明細
投稿者: jnfi67 2003/ 1/21 19:07
メッセージ: 820 / 1888

ちょっと、シリアスなレスをしてしまった後なので(私のキャラクターじゃないなぁ...)

「マイナス金額を書いた明細書」
と、ホンキーさんがほのぼのエピソードをされているので、ちょっと相乗りさせて頂きます。
これはその昔、海軍部内(と、言うより士官達の間で)「一札(いっさつ)」と呼ばれていたものです。
どういうものかと言うと...

金○○園
上正二借用致シ候
○○年○○月○○日
氏名○○

と、名刺の裏に書いて主計科士官(1次室なら庶務主任(主計中尉・少尉)、2次室なら掌経理長、士官室なら主計長)に持って行き「ねやす(お願いします、の短縮造語)」と言って前借していました。
で、給料日には主計科はマイナス分を差っ引いた額と「一札」を俸給袋に入れます。酷い人になると、自分の名刺の裏に予め
金○○園
上正二借用致シ候
○○年○○月○○日
氏名○○
と印刷する人もいたとか。
こう言う「奇行」?の多い人を「名士」、それが甚だしい人を「大名士」と言ったそうです。
(瀬間 喬《海経20期》著「素顔の帝国海軍」)

また、「つけ」の話で一つ。
艦隊は前期・後期と訓練に明け暮れ、母港に戻るのも年数回でした。
で、士官の中には(殆どの士官が?)「レス(料亭)」に「つけ」を溜めていました。
当時は年末に、艦隊が母港に帰った際、料亭の女将が半玉(半人前の芸者修行中の女のコ)2,3人連れて各艦を「回収」に回ります。
「艦長様」「機関長様」「航海長様」とか書いた封筒を渡すのですが、或る年の戦艦(金剛級のどれだったかなぁ..)の砲術長宛の封筒だけ
「『抱』術長様」と書いてあったと...まぁ、書き間違いなんですが、士官室一同抱腹絶倒。「抱術長か、確かにそうですなぁ!」と。
その砲術長、さんざ酒の肴にされてくさっていたそうです。
 

これは honkytonk_2002_x さんの 814 に対する返信です

>米潜水艦>marujeeさん
投稿者: jnfi67 2003/ 1/21 19:22
メッセージ: 821 / 1888

ん、「凡庸」は表現適切では有りませんでしたね。すみません。

むしろ「「万能の平凡人」(欧米人の理想?)の様な性能」とでも言うべきでしょうか。

無理に高性能を最初から狙わず、設計に冗長性を持たせ、戦訓に応じて改良していくスタイルが米国式ですね。

ですので、敢えて初期性能は「凡庸」と言ってみました。

これは marujee さんの 819 に対する返信です

シリアスとコミカル
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/21 20:34
メッセージ: 822 / 1888

うーん、確かに「心の奥底の叫び」が聞こえてきそうな話でした。弟妹達に幸あれ…か。

>「一札(いっさつ)」

ほー!
これまた興味深い話を有り難うございました。

>主計科士官(1次室なら庶務主任(主計中尉・少尉)、2次室なら掌経理長、士官室なら主計長)に持って行き「ねやす(お願いします、の短縮造語)」と言って前借

これは、驚きました。
居住区毎ですか…。
今まで私は、まず分隊長→(飛行科なら飛行隊長)→科長→(副長)→所轄長(軍艦艦長か「隊」の「司令」)で、所轄長が許可してから主計長へ届けが回るのかと思っていました。
しかし、事実は居住区毎ですか。何だか、借り易そうな気がしてきました。

>こう言う「奇行」?の多い人を「名士」、それが甚だしい人を「大名士」と言ったそうです。

そういう愉快な「名士」の方がいざという時、いい仕事をしそうな気もしますが、どうなのか、つい想像してしまいます。

>艦隊が母港に帰った際、料亭の女将が半玉(半人前の芸者修行中の女のコ)2,3人連れて各艦を「回収」に回ります。
>砲術長宛の封筒だけ「『抱』術長様」と書いてあったと

何だか、ほのぼのしていて、好きですヨ、そういうお話し。
「レス」の「ゴッド」が「ハーフ」達を連れて集金ですか…。
「一札」の話といい、「集金」の話といい、大時代な話ですねえ。

なんとも、愉快なお話し、どうも有り難うございました。

これは jnfi67 さんの 820 に対する返信です

USS PAMPANITO
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/21 23:26
メッセージ: 823 / 1888

昨日の投稿で紹介しました潜水艦のうち、

>サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフの外れに展示しているもの・・・

もPAMPANITO という名前で、Web site(San Francisco Maritime National Parkのサイトの一部ですが)を発見しましたので(内部紹介の写真やメンテナンスのため航行している写真もあります。)ご紹介致します。

http://www.maritime.org/pamphome.htm

ちなみに入艦料は8ドルです。

これは o_sole_mio00 さんの 790 に対する返信です

おまけ(Historic Naval Ships )
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/22 0:19
メッセージ: 824 / 1888

下に紹介したサイトのリンクで、昔の艦船の保存されている場所のリストがありまsた。アメリカに日本の特殊潜航艇や回天、ドイツのU-ボート、旧ソビエトの潜水艦も保存されています。

http://www.maritime.org/hnsa-guide.htm#SouthCarolina

これは o_sole_mio00 さんの 823 に対する返信です

大西洋の戦い・・・ご参考に
投稿者: marujee 2003/ 1/22 9:58
メッセージ: 825 / 1888

あちこちのサイトを見ていたら私のカキコより詳しい?サイトを見つけました。
興味のある方はご一読をお勧めします。
見掛けは悪いが内容はしっかりしていますよ。
もっと良いのがあるかなぁ?

http://hp.vector.co.jp/authors/VA009078/aw/TTB.htm

これは marujee さんの 808 に対する返信です

つまらぬことですが
投稿者: dekopon346 (男性/橋の下(らしい)) 2003/ 1/22 13:17
メッセージ: 826 / 1888

jnfi67さん、ひとつ質問です。

>料亭の女将が・・・「回収」に回ります。

彼女たちは艦内にまで入れたのでしょうか?
いまでも、年配の(というより老齢の)漁師さんなどに、「女は船にのせん」という方がいます。古くから日本では海の神様は女で、女を乗せると神様が嫉妬して海が荒れるとの迷信があったためときいています。ましてや、「女のせないいくさ船」では、ツケの回収くらいじゃ艦内にまで入れたとは思えないんですが・・・。


それと、>抱術長!!
爆笑です。おやぢギャグじゃなくりっぱなギャグですね。

これは jnfi67 さんの 820 に対する返信です

艦内にまで入れません
投稿者: jnfi67 2003/ 1/22 13:49
メッセージ: 827 / 1888

国家機密の軍艦ですから、そうそう入れません。軍港内も許可が無いと入れません。
岸付け(岸壁接舷)は滅多にしませんし、大抵錨泊(沖に停泊)ですから...

では、どうやるかというと...
「母港」=「鎮守府」ですから、
1.鎮守府の窓口(どの部署になるか、調べていませんが)に預けて。
2.鎮守府から各艦の定期艇チャージに渡す。(チャージ・艇指揮のガンルーム士官)
3.チャージは艦の副直将校に渡す。
4.副直将校は、各士官に渡す。
5.後は4→3→2→1。

女性含む民間人は何かの機会(慰問や艦側が主催する催し)の時には、艦内に入れます。
また、面会許可が下りれば乗艦(勿論、停泊中)できました。
*ただし、ちゃんと案内役の下級士官がくっついてます。
どこでも出入りできる訳では有りません。

但し、何らか理由があり(修理・改修等)母港ではなく、民間造船所のドックに入ってしまった場合は、大変でしたでしょうね...

これは dekopon346 さんの 826 に対する返信です

盛り上がりました!
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/22 14:19
メッセージ: 828 / 1888

昨日はすごい盛り上がりでびっくりでした みなさんの知識の前に>脱帽!

今日はまだ頭の中がグルグルです(飲みすぎ) この所そんな会が毎日のようにあります

で レスもれがあるやも知れませんがどうぞお許しの程・・・オソレさんの英語のページ 翻訳ソフトでがんばって見ています マルジーさんご紹介のページは軽くて私が理想とするページでした
皆さんのとっても味のある?投稿に もうおあげする座布団がないほどです

もうすぐ私のパソコン環境がADSL1.5から8メガになるかも知れないと喜んでいます これ以上早くなる?信じられません インターネットの環境の進歩についていくのは大変です(関係ない?話ですみません)

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

>カタパルト
投稿者: kusuo1 (999歳/男性/城) 2003/ 1/22 18:47
メッセージ: 829 / 1888

カタパルトと云えば、日本の空母は何故カタパルトを付けていなかったのだろう?
軽空母にカタパルトを付ていれば、もっと戦力になっただろうに。
甲板にカタパルトを埋め込む、知恵がなかったのか?

これは honkytonk_2002_x さんの 804 に対する返信です

>>カタパルト
投稿者: jnfi67 2003/ 1/22 19:02
メッセージ: 830 / 1888

単純に、当時の日本の技術力では開発できなかった為です。

大戦時は油圧式カタパルトですが、これでも当時の最先端技術が必要でした。

これは kusuo1 さんの 829 に対する返信です

よこレスですが
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/22 19:07
メッセージ: 831 / 1888

kusuo1さんこんばんは(^^)

s1です カタパルト甲板に埋め込んだのかどーかはよくわかりませんが

↓こんなんの見つけました
http://homepage2.nifty.com/8AF/WW2_IF/settei_02.html

空母海龍

5.27 GF、七月下旬を以っての最終決戦計画(捷一号作戦)を上奏
  5.28 空母神龍就役
       艦政本部、翔鶴補修作業の完全突貫工事を下令
  5.29 空母海龍就役
  6.上旬 マーシャル在泊艦艇の行動燃料がほぼ底をつく

ーーーーーーあっているといいけど

これは kusuo1 さんの 829 に対する返信です

うわー
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/22 19:49
メッセージ: 832 / 1888

jnfi67さんレスされていたんですね
すみません エラソーに投稿してしまいました 投稿するとき前の投稿を見てから投稿する方法がまだ解りません 只今努力中です(^_^;)

これは jnfi67 さんの 830 に対する返信です

よくわかりました
投稿者: dekopon346 (男性/橋の下(らしい)) 2003/ 1/22 19:54
メッセージ: 833 / 1888

なるほど、国家機密といわれればそのとおりですね。それに、フネにまで取りに来られちゃ下士官兵の手前もあり、まずかったでしょうね。
もっともそんな場面もあればおもしろそうですが(笑)。


海軍のことにはうといもので、つまらぬ質問もあるかと思いますが、よろしくお願いします。ありがとうございました>jnfi67さん

これは jnfi67 さんの 827 に対する返信です

>よこレスですが
投稿者: kusuo1 (999歳/男性/城) 2003/ 1/22 22:58
メッセージ: 834 / 1888

>空母海龍

海龍なんて名前の日本の空母は聞いたことがありません。

>ーーーーーーあっているといいけど

多分if小説の紹介では・・・。

これは s1_9150242 さんの 831 に対する返信です

>>よこレスですが
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/22 23:42
メッセージ: 835 / 1888

すみませんでした>kusuo1さん
どうやらおっしゃるとーり架空の小説?みたいですね(^_^;)

以後よく調べてから投稿するようにします ウェブにはいろんなのがあるといい勉強になりました

お騒がせしてすみません>みなさま

>>>カタパルト
投稿者: kusuo1 (999歳/男性/城) 2003/ 1/23 13:10
メッセージ: 836 / 1888

>単純に、当時の日本の技術力では開発できなかった為です。
大戦時は油圧式カタパルトですが、これでも当時の最先端技術が必要でした。

油圧式カタパルトが開発できなかった為、取り付けられなかったのですか?
従来式のタパルトでは、空母にはなぜ取り付けられなかったのでしょうか?

これは jnfi67 さんの 830 に対する返信です

>>>>カタパルト
投稿者: jnfi67 2003/ 1/23 14:40
メッセージ: 837 / 1888

>油圧式カタパルトが開発できなかった為、取り付けられなかったのですか?

はっきり言ってしまえば、そうです。


>従来式のタパルトでは、空母にはなぜ取り付けられなかったのでしょうか?

水上艦艇に取り付けているカタパルトは、火薬式カタパルトで、火薬カートリッジを点火してその圧力で射出していました。
当時日本やドイツでも研究されていましたが、空母の飛行甲板に溝を作り、その中に一定間隔で火薬カートリッジを埋め込んで段階的に点火・加速さす、という。
ですが、爆発エネルギーをどう逃がすか、とか、爆弾や魚雷を抱えた状態でどうやって火薬カートリッジを使用できるか(爆弾や魚雷の真下で火薬カートリッジが「爆発」するんです!)
等々、実用面でかなり無理があり、見送られました。

*単純に、水上艦艇カタパルト(射出カタパルト)から射出される水上機と、米軍が油圧カタパルトで空母から発艦させていた艦載機では、重量が倍くらい違います。
零戦でも、重量的には射出カタパルトでは苦しいのではないでしょうか。

これは kusuo1 さんの 836 に対する返信です

水上機用カタパルトと空母用カタパルト
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/23 16:29
メッセージ: 838 / 1888

jnfi67様

造詣が深くおいでで、今回も大変勉強させて頂いております。

水上機(フロート機)用カタパルト式のカタパルト(つまり火薬でシュポーン!と射出するタイプ)は、思い出せば、戦艦「伊勢」「日向」から彗星艦爆を射出するのにも、使用されましたなあ(脚はたたんだまま)。同艦搭載予定の瑞雲は純然たる水上機でしたから、従来どおりの射出方式でしたね。(ただし、伊勢も日向も比島沖海戦ではカラ船で出撃していますが。)
大渕圭三少佐(現姓名は本島自柳氏。戦後は医師)は、テストで伊勢か日向から打ち出される彗星を操縦したとの事です。(命懸けですね。)
また、高橋定少佐(戦後は海将)によれば、終戦直前九州の山の中に彗星用のカタパルトを設置して、決号作戦の際に、九州に群がる上陸軍援護の機動部隊を攻撃するつもりだったとの事ですが、そういう状況に至らなかったのは不幸中の幸いと言えなくもないと思います。(山の中にカタパルトを設置するのは、陸上飛行場が悉く敵の制圧下に入る事を想定して。)

また、プランだけで終わりましたが、流星艦攻を搭載して、これまたカタパルトで射出する事を想定した船の絵を「世界の艦船」の日本空母特集で見ましたが、それが計画倒れになったのは、

>爆弾や魚雷を抱えた状態でどうやって火薬カートリッジを使用できるか(爆弾や魚雷の真下で火薬カートリッジが「爆発」するんです!)

…という事と、魚雷を機体の外に懸吊した状態でのカタパルト射出は無理!という理由もあったからのようですね。(すでにご存知でしたらスミマセン☆) 流星は爆弾なら爆弾倉内に、魚雷なら機体の外に吊るしますからね…。

米空母の、飛行甲板の一部がズズズズー…っと動いて伸びるタイプのカタパルトは、従兄が昔作ったプラモデルを見て驚きました。(エンタープライズだったか、エセックス級だったか忘れましたが…。)
あんな大型空母でも、飛行甲板の一部がズズズと伸びるなんて…。
あれなら、例えば比較的前方からも、重い魚雷を抱えたTBF/TBM艦攻を発艦させる事は、困難ではなかったかなと思えました。

小型で低速の米海軍護衛空母も、ああいう「伸びる」カタパルトを持った飛行甲板があればこそ、新型の艦載機を積めたのですから、やはりその点日本は遅れを取っていたと認めざるを得ません。
日本の千歳型、祥鳳型、龍鳳、飛鷹型(中型だが低速)、また「鷹」型と俗にいう護衛空母は、大きなハンディがありましたよね。(船団護衛の対潜哨戒の際は、旧式低速の九七艦攻でも問題はなかったですが、船団護衛自体が破綻してしまいましたね…。)

阿部善次少佐はご存知の通り、マリアナ沖海戦の時は652空飛行隊長として隼鷹に乗り組んでいましたが、タウイタウイ泊地では風がベタ凪で、おまけに新たに搭載した彗星が強い合成風力を必要とするので、高速が出る一航戦の大鳳、翔鶴、瑞鶴が比較的発着訓練が出来たのに(と、言っても、泊地の外は米潜水艦がウヨウヨしていてうっかり外を航行できなかったようですが)、阿部少佐指揮下の彗星は、ナント「一ヶ月間も飛べなかった!」との事ですからね。

もし飛鷹型の飛行甲板に米空母タイプのカタパルトが付いていたら、もう少しは発着訓練が出来たでしょうにね。

日本の後期型の艦載機と言えば、烈風(量産化ゴーとなった時点で終戦)、紫電改の艦載型、流星、彩雲ですが(空冷彗星も可能性ゼロとは言えなかったかも?)、これらも信濃だの翔鶴型だの大鳳、はたまた雲龍型だのを想定すれば問題はなかったでしょうが、低速小型の改装空母・護衛空母は、やはり旧式艦載機に頼らざるを得なかったのでは?とも思えます。(もっとも、昭和20年2月初頭に空母部隊は解散になりましたから、以上も「獲らぬ狸の皮算用」ではありますが…。)

これは jnfi67 さんの 837 に対する返信です

摺蜂山の旗は二つあった
投稿者: marujee 2003/ 1/23 17:19
メッセージ: 839 / 1888

ネットサーフィンをやっていたら面白いサイトを見つけました。こんな話皆さんご存知でしたか?

1945/2/23 朝 第5海兵師団28海兵連隊第2大隊E中隊は大隊長から小さな星条旗を渡され、これを摺鉢山(硫黄島)の上に立てるよう命令を受けた。40名の偵察隊が一列で、時には四つ這いになって休火山の頂上を目指した・・・頂上に上りつくと少し撃ち合いがあったが長くは続かなかった。海兵たちは近くにあった7フィートぐらいの鉄棒に持ってきた星条旗をくくりつけ、見晴らしの良い場所に立てた。
浜辺の蛸壺の中にいた海兵たちはこの旗を見て、いずれも肩を抱き合い、背中を叩き合って歓声を上げた。海上にいた全ての艦船は一斉にそれぞれの汽笛を鳴らした。丁度視察に来ていた海軍長官フォレストール提督は後ろにいたスミス上陸軍司令官を振り返り、重々しく言った。「ホランド、摺鉢山に上がった星条旗について今後500年は語り継がれるだろう。」歴戦の猛将はただ頷いただけであったがその目には涙がいっぱいたまっていた・・・・。

これはWW2の感動的なシーン(アメリカにとっては・・・)であるが、この時の有名な写真が実は最初の旗ではなく、下から良く見えないので最初のものの2倍ぐらいある大きな旗に取り替えた。2度目に立てたときに撮られたのが有名なプューリッツァー賞をもらった写真であった。この写真をもとに銅像を立て、この旗を立てた海兵の名前が載っているのだが、実は一番乗りをした兵士ではない。この写真があまりにも良かったので海兵隊ではこれを国債の宣伝用に利用したのだそうだ。
この手のサイトは沢山あるが写真のよさそうなものは・・・

ワシントンのアーリントン国立墓地の隣にある海兵隊戦争記念像
http://iwo-jima-memorial.visit-washington-dc.com/

最初に揚がった星条旗
http://web.tampabay.rr.com/babi/iwojima.html

日本軍でもシナ事変である町を占領したが実際城門(シナの町は城壁に囲まれているのが多い)の上で万歳をしていたのは別の部隊で、一番乗りをした部隊は逃げた敵を追跡していなかったので、後から来た部隊に万歳をやらせて写真を撮ったという話を何かの本で読んだことがあります。

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

>摺蜂山の旗は二つあった
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/23 17:34
メッセージ: 840 / 1888

そう言えば…

日本の戦時中のニュース・フィルムで、後から撮ったもの(「城門の上で万歳をしていたのは」と同じですね)の例で、台湾沖航空戦を扱ったフィルムで、冒頭の搭乗員の集合しているシーンは、「戦闘後」に改めて撮影されたものだと、先日読んだ本のキャプションに書いてありました。

まあ、プロパガンダですからねえ…。

これは marujee さんの 839 に対する返信です

>>摺蜂山の旗は二つあった
投稿者: jnfi67 2003/ 1/23 18:33
メッセージ: 841 / 1888

そう言えば・・・(真似っ!^^)

ナチス・ドイツの宣伝中隊は、時として最前線の戦闘部隊より前で撮影する事もあったとか。
宣伝相のゲッペルスが厳命していたとか。

いくら、プロパガンダとは言え...

これは honkytonk_2002_x さんの 840 に対する返信です

>>>摺蜂山の旗は二つあった
投稿者: honkytonk_2002_x (男性/扶桑) 2003/ 1/23 18:56
メッセージ: 842 / 1888

それはまるで…

いにしへのテレ朝系「水曜スペシャル」の故・川口浩隊長では???(@死語)

これは jnfi67 さんの 841 に対する返信です

>旗は二つあった
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/23 20:40
メッセージ: 843 / 1888

こんばんは>s1です
このところ黒星続きです(^_^;)

おもしろい話題ですね 月へ行ったとか 行かなかったとかの迫力ある映画を思い出していました もうこの当時からマスコミというか映像媒体を征するものは世界を・・ですね 思えば米大統領レーガンのメークがどうのとか騒がれました ヒトラーの演説には効果的照明が使われたそうですね(ニュールンベルグ裁判話題にしてはいけませんか・・・ぜひとも>みなさん)

話はちょっと変りますが 世界史カテでちょっと追っかけていたところがありました 議論の不毛?さにトピ主(女性?)の方が終了宣言をされました 匿名の掲示板ではありますから真偽の程は解りません しかしいずれにしても その言われていたところは深く共鳴いたしました

初心に戻り謙虚にしかして大胆に進めていきたいと思います またこのトピのロムも開始し いつか終了する時には 熱あるKBを無にすることなく HPに公開したいと思うようになりました 戦後は終わったか・・のページは以前からたてています 御迷惑と思われる方はおっしゃってくださいませ(・・終わったとき?・・始まったばかりと思っていますので 何年かかるかは)

今日は 大阪千里へ・・只今帰りました 道路の上を通るモノレールを見て すごいなーとあらためて日本の広さと大きさを実感してきました(^^)
思いつくまま すみません

これは marujee さんの 839 に対する返信です

>>>>摺蜂山の旗は二つあった
投稿者: kusuo1 (999歳/男性/城) 2003/ 1/23 20:58
メッセージ: 844 / 1888

そう言えば・・・(真似っ!真似っ!^^)

マッカーサーはレイテ湾に上陸した際、上陸用舟艇の若い船長に命令され、海の中に下ろされて怒っていたが、その時撮られた写真が出来上がってくると、自分が海中を歩いている姿を見て気に入り、何回も海中に入り同じ写真を撮ったそうです。
有名な話だったかな・・・。

これは honkytonk_2002_x さんの 842 に対する返信です

摺鉢山頂上の戦闘
投稿者: yatiyochan (48歳/男性/福岡市東区) 2003/ 1/23 21:12
メッセージ: 845 / 1888

@ 海兵隊の一中隊は、山頂によじ登って星条旗をおし立てた。と、たちまち、その星条旗はうちたおされた。百名の生きのこり日本兵が、突撃してこれをうちたおしたのである。が、ついに午後3時もはや、摺鉢山には一名の日本兵も生きのこっていなかった。そして、山頂には、へんぽんと星条旗がひるがえったのである。

*資料=「ジュニア版 太平洋戦史 4」 集英社 1962

A「軍事情報 第74号 02-5/13 軍人群像:栗林忠道16」には、山頂に星条旗が立った後、二名の日本兵が洞窟から星条旗に突撃し、一名はすぐ射殺されたが、もう一名が手榴弾を投げたためカメラマンが滑り落ちた、との記述がある。出所が米軍の記録とだけで、さらにその際旗がどうなったかは不明である。

ただし、「戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)」(防衛庁戦史室)にはこれらについての記述はない。

これは marujee さんの 839 に対する返信です

規格を統一すること
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/23 22:33
メッセージ: 846 / 1888

アメリカの艦船のサイトを見ていて気がついたのですが、アメリカの戦艦は太平洋戦争前後の戦艦は基本性能が同じ(例えば、主砲は16インチ3連装砲3基、5インチ連装高角砲など)で少しずつ進化しているように思えます。大量の艦船なり航空機を建造する場合、規格を統一しておくと、建造に効率的に進められ建造期間の短縮や資源の節約が可能になる。というメリットが生じます。また、また部品の調達や品質管理が用意となり、計画通りのスペックを出す事ができます。日本の場合は、戦時中の艦船や飛行機は言わば試作機で、次のモデルに引き継がれるような共通の規格は少なかったのではないかと思います。良い意味では意欲作ですが、新機軸を使用したために故障が発生したり、艦や機が期待通りのスペックを出す事ができなかった、機によって当たり外れがあった、などが多かったのではないかと思います。この辺りの事情は、詳しい方に教えて頂ければと思います。

これは marujee さんの 825 に対する返信です

>規格を統一すること
投稿者: kusuo1 (999歳/男性/城) 2003/ 1/23 23:06
メッセージ: 847 / 1888

JIS(日本工業規格)とは、我が国の工業標準化の促進を目的とする工業標準化法(昭和24年)に基づき制定される国家規格です。
工業化の遅れた日本には、これ以前は統一された工業規格は無かったと思います。

これは o_sole_mio00 さんの 846 に対する返信です

>>規格を統一すること
投稿者: o_sole_mio00 2003/ 1/23 23:52
メッセージ: 848 / 1888

kusuo1さん、こんばんは

早速のレスありがとうございます。
本来は、戦時中に規格は統一されてしかるべきだと思いますが、日本の
工業規格はやはり戦後に統一されたのですね。JISは戦後だとは思って
おりましたが。いずれにせよ工業規格は日本の高度成長におおいに貢献
したと思います。

今後ともよろしくお願いします。

明日はいつもより早起きして大阪出張ですので、これにて失礼致します。

これは kusuo1 さんの 847 に対する返信です

硫黄島!
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/24 0:20
メッセージ: 849 / 1888

太平洋戦争の全期間をふりかえって 硫黄島をめぐる決戦ほど壮絶かつ悲惨な戦闘は世界の歴史に照らしても数えるほどしかない・・

わずか20平方キロの小島 孤立2万933人の日本軍に対し艦艇800隻 航空機4000機 総兵力25万を持って 戦死3万を出し30日以上を戦った・・

玉砕戦法と持久戦法という日本人でなければできない戦いで 将兵は与えられた任務を勇敢に果たした・・この戦いから学ぶべきものは 日本人が今失いつつある 精神的・肉体的強さである

昭和19年6月15日午後1時 7隻の米空母からグラマン戦闘機が発進 同午後8時44分 600隻の上陸用舟艇が硫黄島攻撃を開始した この攻撃はサイパン島攻撃側面支援であった

豊田連合艦隊司令はサイパン上陸報告を受け「あ」号作戦決戦を発動
「皇国ノ興廃此ノ一戦二在り 各員一層奮励努力セヨ」

硫黄島をめぐる戦い内容は私の始めて知るところです

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

硫黄島
投稿者: s1_9150242 2003/ 1/24 0:22
メッセージ: 850 / 1888

太平洋戦争の全期間をふりかえって 硫黄島をめぐる決戦ほど壮絶かつ悲惨な戦闘は世界の歴史に照らしても数えるほどしかない・・

わずか20平方キロの小島 孤立2万933人の日本軍に対し 米軍 艦艇800隻 航空機4000機 総兵力25万を持って 戦死3万を出し30日以上を戦った・・

玉砕戦法と持久戦法という日本人でなければできない戦いで 将兵は与えられた任務を勇敢に果たした・・この戦いから学ぶべきものは 日本人が今失いつつある 精神的・肉体的強さである

昭和19年6月15日午後1時 7隻の米空母からグラマン戦闘機が発進 同午後8時44分 600隻の上陸用舟艇が硫黄島攻撃を開始した この攻撃はサイパン島攻撃側面支援であった

豊田連合艦隊司令はサイパン上陸報告を受け「あ」号作戦決戦を発動
「皇国ノ興廃此ノ一戦二在り 各員一層奮励努力セヨ」

硫黄島をめぐる戦い内容は私の始めて知るところです

これは s1_9150242 さんの 1 に対する返信です

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