2006年02月28日

トリノ・オリンピック

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目の前にある花を眺めながら書いている。特に何を書こうかまだ決めていない。菊は分かるのだけど、赤紫の花の名前は知らない。こうして花の色が違うように人にもカラーがある。黄色は黄色らしく。白は白らしく生きたいが、赤にもなってみたいなどと人は欲張り。目立つことは花にとって死活問題なのだろう。それを悠長に眺めていると、何だか申し訳ない気持ちになる。せめてきれいに撮れたらと思い苦労してみた。

花が美しいのはその生命の短さにあるという。自分自身と重ね合わせて感情移入してしまう。花木のほんとうの姿はその茎や幹にあり、花や葉はそれを守るためのものだと聞いたことがある。何事も目立たないところにほんとうの力が秘められているものだ。

トリノ冬季オリンピックも閉幕した。待ちに待ったメダル、それも金メダルということで日本中沸いたと思う。選手個人のことではあるけれど、胸に日の丸を飾った以上私達に喜ぶ気持ちが沸き起こるのは自然な姿だ。ネットで、いろんなものをダウンロードするとき、特殊なものの配布先の多くは外国のサイトであり、プルダウンメニューに "Japan" の名前が無いときの寂しい気持ちは喩えようがない。こうして日本語で書ける喜びの裏に多くの方の熱い気持ちがあったに違いない。

否応なく世界を意識せざるをえないネットの世界を経験すると、オリンピックで入賞することがどんなに価値のあるものかが分かる。テレビで見る限り、外国の選手はやはり体格的に圧倒して見える。果たしてこのハンディを抱えたまま競技することはフェアじゃない気さえしてくるのだ。全ての競技にエントリーすることが大国という考えがあるのかも知れない。「参加することに意義」から、「参加しやすいものに集中」していく時かも知れません。「数打ちゃ当たる」ほど世界は甘くない、そんな感想を持ちましたが、スポーツ精神から見てどうなんだろうという一抹の不安はあります。

投稿者 sensyu : 16:45 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月27日

おひなさま右左

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お雛様はあの歌とともに懐かしい響きを持つ。折り紙で雛人形を作ったことはありませんか。仲良く並ぶ姿は人の最大幸福を表しているように見える。この雛人形を飾る風習は明治頃からで、それまでは、人形を川へ流す「流しびな」であったと「源氏物語」にあるそうです。これが三月節供雛の起源であり、今でもこの風習が残っているところもあると聞きます。この時期になると、男雛と女雛、歌では「お内裏様とお姫様~」でしたか、どちらに置くのかの話題が出てきます。右か左か・・・この話は奥が深そうですね。

「左右」と書くように左は右より上位なのです。京都、天皇がお座りになる高御座(たかみくら)は南向きで、これを中心に東を左と決め、左京区。右京区ができたそう。「日出る国の天子、書を日没するところの天子に致すつつがなきや」という訳で太陽の昇る東を上位と定めたという話もあります。大事な人、エライ人は左に座ることとなります。関西での雛人形位置の根拠かなと思います。関東では皇居での天皇、皇后のご様子から男雛を向かって左に置くようになったのでしょうか。外国では右は"Right"「正しい」とか「正義」みたいな意味があることからも右が優位であり日本とは逆です。どうやら左優位は日本だけの特有文化かも知れませんね。

男雛は右でもなく左でもない、中央に座っているという見方が現在の世の中に受け入れられるかどうかは疑問ですが、歴史はそのように流れてきたのです。男女仲良くいけたらそれでいいじゃないかと思いますが、右と左を考えて見ることは全てにおいて決して無駄なことではないような気がします。


投稿者 sensyu : 16:40 | コメント (0) | トラックバック

2006年02月12日

飽食の時代

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繭玉(まゆだま)を模し、クリの木の枝一面に餅を巻き、餅花(もちばな)と成し、五穀豊穣、国家安泰、家内安全を祈りながら山車(だし)が町中を巡行する蓬莱祀(おらいし)という神事は、その1500年という歴史からも昨年1月に国選択無形文化財に指定されました。

大きな修羅(しゅら)と呼ばれるソリに幅3メートルもある俵を乗せ、その飾り高さは6メートルにもなりますから、巡行の時はいたるところ道路上の電線を持ち上げながらとなります。50名ほどで曳き回すわけですが、各町内で待ち受ける方々のリレーが大きな力です。また、台座に恵比寿大黒の衣服を着た囃し方が音頭を取る様は京都の祇園山車を彷彿とさせます。

継体天皇がこの地から樟葉宮へ即位のため還御されることとなり、その徳を偲びながら神事として長く続けられてきたことは驚嘆に値し、純朴な越前の風土を感じさせられます。安閑、宣化、両天皇の産湯の池と伝承される皇子ヶ池は目と鼻の先にあり、住んでる所は佐山といって、継体天皇ゆかりの佐山姫とまで聞けば、そういった歴史の匂いの中で生活してきたことになります。

こういった餅花は結構各地に残っていると以前歴史の講義を聞いたことがある。つい最近まで、お米は現在の貨幣と同様の扱いであったし、杵と臼でつく正月の餅つきが大事な行事とされてきたことと合わせ、これらは飢餓への恐れの裏返しとも思える。枝に巻かれた餅の意味と願いは何だったのか考えることが、この飽食の時代にあってこそ意味があると思われます。

http://www.awatabe.com/2006/oraishi.htm

投稿者 sensyu : 20:01 | コメント (0) | トラックバック