2007年01月31日

ネットの時を刻む

 Vista発売ということでネットは賑やか。PCの大きな広告も紙面に出ている。ある掲示板での話のやりとりを見ていると、98を懐かしむ声もあった。MeやXpを長くがまんし、98が動かなくなり、やっと手に入れたXpに満足している今日この頃だが、それでもできるだけ早くVistaを手にしたい。欲しいものがあるということはハリがあってよい。今日広告では大変安いパソコンが、512MBのメモリとあるからなのか。メモリ1Gが必要と公式に言われているのに大丈夫なのだろうかと心配してみる。最初からメモリ増設を予定しての価格ならどうなんだろ。

 ネットがどんどん高速になって、気がついたら動画を多く見ている。ネットは掲示板に書いたりメールをやり取りするものと思ってきたが、限りなくTVに近づいていくような感じがしてちょっと心配。TVは無線で一方向送信だが、ネットは回線による双方向の送信、負荷がかかればすぐに繋がらなくなるような気がする。TVがPCになるのか、PCがTVになっていくのか、ここしばらくの内に決着を見ることになるかも知れない。既存メディアの不祥事や大企業の管理の甘さなど茶飯事になっているのを見るにつけ、大きいと思っていたものの意外なほどのモロサを感じるからだ。

 ネットを始めた頃は、ネットで何かを得たぶん自分もネットに貢献というかお返しをしようというようなことが真顔で言われていた。HPを始めた動機のひとつでもあったよう。みんなが持っているものを出しあうという感じ。でも昨今ではネット人口も大幅に増え、そんな感じがあまりしなくなってきた。個人では膨大な情報量の中に埋没してしまいそう。結局最後は官庁や企業が並ぶ、整然とはしているがちょっと調べ物に使うだけのものになっていくのか、ネットの未来がどうなって行くのか興味はつきない。ネットで見たVistaには時計がついていたよう。うらやましいからVistaを手に入れるまでHPにつけておこうかなどとかわいい時計を作ってみる(笑)。

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2007年01月27日

越前の裁き

 韓国ドラマを数多く観ていると、あるパターンに気づく。社会的には出世物語を賛美し、恋愛では三角関係で最後誰かが身を引くという姿を美化しているようなものが多い。ドラマによく出てくる社内でのあれこれは、昔になるがNHKの「若い季節」を思い出す。分かりやすく、ドラマの中に没入しやすいところが人気の秘密かも知れないし、外国のドラマだからと少し離れて余裕の姿勢で観ることができるからとも言える。好きだからこそ身を引くという姿は人間だけが持つことのできる高尚な感情だと思うが、この話は大岡越前のお裁きにもあったような気がする。お奉行の前で二人の女が子供の手を引っ張り合う話だが、痛がる子を見て思わず手を離した女を本当の母親と裁いた奉行はやはり名奉行だと今では感心している。この話を聞いたのは小さな子供の時だった。その時話を聞いていて自分の手が痛く感じた記憶がある。ほんとうの母親なら痛くてもいいから負けないで離さないで欲しいとおぼろげに思ったものだ。愛する人の苦しむ姿を見たくないという感情は教えられて持つに至るのか、それとも持ってこの世に生まれてきたものなのか、よく話題になる延命治療などにも繋がり少し時間を割いて考えてもいい。頭の中では大岡越前も遠山の金さんもごっちゃであり、大岡越前は何故越前なのか福井との繋がりなどなどまだハッキリと分からない私では、なかなか「一件落着~!」とはいかない。

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2007年01月20日

世界の常識

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 海を越えて手紙をときどきもらうことがある。宛名書きは個人名が先で住所は後になっている。私の名前→粟田部→今立→越前市→福井県→日本となっている。最後に国名がきてアンダーラインで強調されている。配達人は下からの確認となり不便かなとも思うが、個々の人ひとりひとりをとても大事にしている感じを受け軽いカルチャーショックを覚えるのは私だけだろうか。中国など漢字圏の国は日本のように国名から宛名が始まるようだが、国が全てに優先する考え方はこんなところからも知らずの内に固定観念になっていくのかも知れない。教育基本法の改正など今真剣に論議されているようだが、思わずこんなことまでと思う内容もあった。いい大人まで子供扱いされているような気がしてくる。ぜひネットで検索されるとよい。検索と言えば今朝大変興味深く拝見した検索サイトがあった。あんまりおもしろいので、肝心の検索を忘れてしまう。魅力的な女性が検索の案内をしてくれるのだが、見とれていると検索を促してくる。しまいにはブラウザをガラスに見立てコツコツ叩いてきたのにはさすがに驚いた。英語のヒヤリングにもなる。このページを作った人はきっとユーモア満点の楽しい方に違いない。その作成時のワクワクさが伝わってくるようだ。順位が整然と並ぶだけの検索の世界にあって常識とは何かを今一度思いおこさせてくれたMs.Deweyはきっと愛されると思う。英語オンリーみたいなので、何も検索語が浮かばない方は「awatabe 」とたずねてみてくださいね、これを我伝引水と言い日本の常識か(笑)

http://msdewey.com/

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2007年01月14日

左義長まもなく

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 まもなく花筐公園で左義長飾りの点火式が始まる。左義長は花筐公園に隣接する岡太神社の神事であり厄年の方の厄払いが毎年行われる。この左義長飾りは大変立派でしかも気品に満ちている。寡聞にして今までこれほどの飾りを他に目にしたことがない。頂には「天下泰平 五穀豊穣」の「サバの尾」を飾り天下国家の平安を祈る。火打ち石をかたどった「火打ち」は厄年女性の方の手によるもので、火難を避ける意がある。また「丸竹」は厄年男性を表し、家庭が丸くいきますようとの願いがある。このようにそれぞれ深い意味を持ち人々の願いが天まで届くように高くそびえたつ左義長は粟田部町民の誇りでもある。そんなとき、「福井市公園、プラ製樽左義長会場に大量投棄」今朝大きく報道された。どうやらこのプラ製樽は門松の土台に使われたものだそうだ。『正月飾りを燃やす左義長のどんど焼きといっても、ダイオキシンなど問題があり常識的に考えて、』地元の方は神事の冒とくと怒り、警察も捜査するそうである。「常識を疑う」とはよく聞く言葉であるが、大変難しい時代になったと実感させられる。小さなしめ飾りなどにもそういったものは随所に使われている。時代の変遷が早すぎる昨今、其の波が伝統行事にも押し寄せている。常識というものさしを誰が作り誰が教えるのか考えなければならない時代、寒風が吹き抜けていく。

http://www.awatabe.com/2007/sagicyo.htm

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2007年01月13日

池田が近い

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 配達があってお隣池田町へ行く。昨年開通した越前市と池田町を結ぶ新清水谷トンネルをくぐると雪の量が目に見えて違ったが、それより池田へあっと言う間に着いたのには驚いた。旧清水谷トンネルは山を登ったところにあり、中ほど岩盤がむき出しになっているところもあって少し怖かった。小さい頃はバスに乗って毎年池田の稲荷にある須波阿須疑神社のお祭りに行った。山道はカーブが多くバス酔いした記憶があるが、そんなこんなを思い出せば道行の快適さは雲泥の差となった。山へ登ることもなく平地を行く感じである。もう隣町と言うより同じ町という感じさえ受ける。もう少し早く出来ていれば今立と武生市町村合併の様相にも多大な影響を与えたかも知れない。きれいなトンネルでこれから池田へ行くのがとても楽になる。

http://www.awatabe.com/yuki/ikeda.htm

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2007年01月05日

慈母の懐

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 ここ福井は越前の空、新春にふさわしい雲ひとつない快晴。わずかばかりの雪が屋根と道路脇に残ってはいるものの冬を感じさせない陽気となっている。今年はいいお正月だったね、と挨拶声があちこちで聞かれる。『自然は春に於てまさしく慈母なり。人は自然と溶け合い、自然の懐に抱かれて、限りある人生を哀しみ、限りなき永遠を慕ふ。即ち慈母の懐に抱かれて、一種甘える如き悲哀を感ずるなり』(自然と人生 / 徳富蘆花)今日の天気は蘆花風に言えば、まさしく慈母。厳冬を知るゆえに深く響く言葉なのかも知れない。

投稿者 sensyu : 11:59 | コメント (0) | トラックバック

2007年01月02日

新年に思う

大雪
 年老いし人あまた住む山里に雪下ろしの事故多きを憂ふ

The Great Snows 
 Numbers of the old
 Live in mountain villages:
 Sad to hear of
 Many accidents that befell
 As they shovel snow off roofs.

 年末年始とあわただしく過ぎていく。偶然目にしたこの句は天皇陛下の詠まれた歌と知り大雪で苦労したことなどよみがえり思わず涙した。人のこころ内には神聖な領域がある。どうやらその琴線に触れたようだ。

 年末恒例の紅白歌合戦は初めて見過ごした。家族との新年の食卓でいろいろ話が弾んだが、どうやら女性のほとんど裸とも言える姿が放映されたようだ。ネットで確認するといくら言い訳しても裸としか見えない。抗議の電話が殺到するのも頷ける。

 紅白はその昔、初めて出演できた新人歌手が震え涙を流しながら歌い、誰もがその姿に心打たれた、いわゆる神聖な番組であった。時代が変わったとはいえ、自らその品位をおとしめていくのはどうしてなのか分からない。世界に放映されることをどのように考えているのだろう。最近よく見る韓国のドラマにある男女のあるべき姿と比べ恥ずかしい気がする。

 紅白は日本の年越しの代名詞であり、生活の多様さからくる視聴率など気にせず、いつまでもいい番組であってほしい。年越しに都合で見れなくても紅白がそこにある、それで充分存在価値があると思うがどうでしょう。天皇陛下の句には英訳がある。世界を意識したものと思われ、日本のこころを代弁しあまりあるものをそこに感じる。

明けましておめでとうございます。

投稿者 sensyu : 11:15 | コメント (0) | トラックバック