2010年05月31日

宝慶寺

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 池田から大野へ続く道。景色はすばらしいが、一車線とも言えるところが多く、常に車のすれ違いを念頭に、広い場所があればインプットしながら走らなければいけない。山道の頂上とおぼしきところからの景色は圧巻で驚く。頂だけが見える真っ白の白山が鮮やか。偶然お会いした奈良からの方と、あの山が荒島岳だろうかなど話が弾む。坂道を降りていくと 宝慶寺の駐車場が。

 ここは今でも峻厳な修行の場なのだろうと思われるほど山奥。永平寺が第一道場、ここは第二道場。思ったより明るい環境で、広場には重文の旧橋本家住宅も。天気がよかったからかも知れないが、うっそうとした感じはなく明るい。本堂では読経の真っ最中。織田家の墓があるそう、何故と思い行ってみる。説明の看板を読み納得。織田・朝倉の戦い、そしてその後も、因果応報が複雑に絡み合いながら延々と続く歴史の海、しばし想像をめぐらしタイムスリップ。

http://www.awatabe.com/fukui/houkyou/

投稿者 sensyu : 20:57 | コメント (0)

2010年05月30日

養浩館

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 初めて養浩館庭園を見学に行く。福井藩主松平家の別邸、江戸期には御泉水屋敷と呼ばれていたそう。明治になって松平春嶽により「養浩館(ようこうかん)」と名付けられる。昭和20年の福井空襲で消失、8年の工期を経て平成5年に完成したという歴史。だから建物はまだ新しく綺麗なんですね。この庭園の池は大変広い、松が目につくのは松平と関係があるのかも知れないなど空想しながら一周り、裏手に梅園もあった。その時期にまた来たい。隣接の歴史博物館との間に春嶽公の銅像があった。この幕末には写真もあったはずだから、そのお顔はその人と重なるはず。たいへんキリっとしたお顔から英邁と今に伝わるも頷ける。帰りは西門より、係りの方が親切で、福井城の外堀の跡とか福井城の門のことなど詳しく。今県庁にあるのは内堀だから、復元外堀位置からみて、その縄張りの壮大さが知れる。

http://www.awatabe.com/fukui/youkou/

投稿者 sensyu : 14:50 | コメント (0)

2010年05月25日

写経

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 週末、早朝永平寺で写経をする。予約があったとかで、そこへ入れていただき待ち時間なしですぐに始められた。若い頃京都で以来のこと、やはりこういった場所で少し緊張しながらがよい。正座がよいのか尋ねると、円形の座布団に腰掛、足を組み座禅スタイルでどうぞとのこと、おかげで1時間疲れなく。墨の香が漂うシーンとした雰囲気はいいものだ。


 以前からみると参拝客が少ないとみやげもの屋さんで聞いた。どうしてか尋ねると、不景気だからとすぐに答えが帰ってきた。苦しいときの神(仏)頼みも現代では通用しない言葉になったのか。これまで聞いたことのないような事件や世の中の動きを目にし驚く毎日。寺で見たビデオに履物を揃えるとよいというのがあった。そろえておけば、出かけるとき心が整うそうだ。ちょっとしたところから始められる教えの中に世の中を変えるヒントがありそう。

投稿者 sensyu : 20:53 | コメント (0)

2010年05月24日

越前陶芸村

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 以前からの副館長との約束で宮崎の陶芸村へ行く。もう随分と前、書道の合宿がここであり懐かしい。その頃から益々広々としたよい公園になっている。円形の建物、文化交流会館で展示物見学と挨拶を終え薦められるまま、隣接の福井県陶芸館資料館を見学。学芸員の方に案内していただき大変勉強になった。



 室町時代の双耳壺、昔の釉薬(ゆうやく)は薪の灰が降り積もり自然にできたものとか。横に流れる釉薬の模様も見れた。越前焼は平安時代に常滑焼(とこなめやき)の影響を受けたそうで、三筋壺とか四耳壺のお話。江戸時代になって灰流しを始め、登り窯(のぼりがま)で人工の釉薬が使われるように。越前の古窯といえば、小山富士夫、水野久右衛門、両師の功績が大きいと知る。また、すり鉢の形の変遷なども順に展示されていておもしろい。陶芸の実演も見学できて、轆轤が回るのではなく、人が作品の周りを回るのが特徴、だからすごい大きさの壺もでき展示もあった。展示室は大変落ち着いた雰囲気(撮影許可済み)

 県外から定着している作家の方もおられ、作品も拝見させていただいたのでご紹介。
 陶芸作家 新藤聡子 kozougama@peach.plala.or.jp
 毎日使える、土肌を生かした、シンプルな器をめざされているそうです。

 確か越前和紙にも県外からの若い方達が、がんばっておられました。手仕事、職人の世界はよく分かりますから、みなさんがんばって欲しい。

投稿者 sensyu : 23:26 | コメント (0)

2010年05月18日

明智神社と細川ガラシャ

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 秀林院様のお果てなされ候次第のこと。で始まる芥川龍之介の『糸女覚え書』は関ヶ原の前哨戦ともいえる慌しい中、秀林院(玉姫の法諡)の最後の様子を侍女から見た目で詳しく書いている。日本女性の凛とした生き様、そしてその方の生誕の地が、


 戸の口坂トンネルを出て坂道をおりてすぐ、「明智神社」の石標が以前より気になっていた。いつもの通りまっすぐ行けば福井なのだが、指し示す方角にハンドルを切って見る。明智光秀を祀っているというだけでもインパクトがあるのに、細川ガラシャの名前の看板も目についた。村の中に小さな祠が、側で畑仕事をしている方にお聞きすれば、それがそうだとのこと。何でも、中にはレプリカが入っていて、ご神体はしかるべきところに保管しているそうだ。神社というにはあまりに小さな祠ひとつだが、近辺の三軒でこれまで守ってきたなどお聞きしていけば、また違って見えてくる。ここに馬を繋ぐ馬場があり、朝倉氏遺跡まで飛び石が敷かれていたと子供の頃の記憶を聞かせていただく。光秀は朝倉に仕え三年この地に、そして三女、後の細川忠興の正室玉姫はここで生まれたと言われる。この玉姫こそGratia、ガラシャ、ガラシア、とも言われ日本の歴史にその名が燦然と輝く細川ガラシャその人なのだ。まぁ見て行きなさいと言われるまま、祠の前に建っている「東大味歴史資料館」の中を拝見。最近では観光バスもやってきたと驚かれていた。

散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
さきだつは同じかぎりの命にも まさりて惜しきちぎりとぞ知れ
雲をなどあだ散るものと思ひけん わが身を草におかぬばかりを

まずは秀林院様お果てなされ候次第のこと、あらあら申し上げたる通りに御座候。

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2010年05月17日

朝倉氏遺跡講演会

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「一乗谷朝倉氏遺跡が今日に訴えるもの」
講師・近藤公夫教授

 30年前武家屋敷の復元、20年前立体復元と続いた、この300ヘクタールの朝倉氏遺跡は日本で最も整備され、国が重要な特別史跡としている。これは日本唯一とも言え、日本の中世の歴史を知りたければ福井へ行けとさえ言われている。


 さて、ここへ来る人達は何を求めて来るのか。歴史であったり、家族での楽しい一日を過ごすことであったりする。そこで過ごした思い出が子供達の記憶の中に残り、日本の文化と歴史を大事にしていくのではないかと願う。そして日本の中世の文化と歴史を知る為に全国から多くの人々が訪れて欲しい。また外国人の日本でのそういった訪れてみたいところの上位4番目にここが希望されているほどだ。幸か不幸かと言ってはいけないかも知れないが、朝倉が織田に負け灰となって地下に埋もれた為、遺跡がこうして残ったとも言える。将棋や陶器など多くの文化が朝倉100万石の元に育ち、また波静かな日本海航路により流通が栄えた。2~30トンもある巨石を積み上げるすごい土木技術も持っていた。武家屋敷の側に町屋など、中世と近世の違いはここを見ることで、江戸時代武家屋敷の理解ができる。朝倉は京都の一条家との繋がりがあり、中世における地方豪族の庭園文化を作った。このような歴史上の朝倉の位置づけは、先の福井豪雨の時集まったボランティアを見て、いかに大事なところであったかが分かる。中世、当時栄えたヨーロッパの文化にひけをとらない文化がここにあった。日本のポンペイであると言われる方もおり、世界遺産としてこれからの方向も考えられる。(ここより質疑応答)海外での評価が高いと言われてはいるが、多くの外国人はまだまだ日本を未開の国であると思っていて、日本に歴史文化があると思ってはいない。訪れてそうでないことを知り驚きの声をあげる。次に石高については朝倉の当時の勢力圏から考えても100万石は妥当である。最後に建物の復元については、訪れる人のイメージを固定してしまうかも知れない、一番大事な事は、今残っている遺跡遺構をそのまま残していくことだ。

 最初、朝倉氏遺跡にこれまで尽力されてきた経過などのお話、その後のお話の要点だけをかいつまんでみました。81歳になられるという教授、いかめしい肩書きからはとても想像できない笑顔を随所に振りまかれながらの講演に大きな拍手がありました。また、会場は先ほどの全国植樹祭で、天皇・皇后両陛下がお座りになったステージでもあり、少し気恥ずかしい思いも。この後、時代絵巻姿をした元気いっぱいの資料館女性職員さん達を先頭に参加者全員での遺跡めぐりがありました。この講演のことは全く知らず、たまたま訪れ、会場での勧誘にしたがったのですが、偶然に深く感謝しながら、こうして記録に留めます。(画像ネット掲載了解済み)

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2010年05月11日

水晶浜

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 水晶浜は名前の通りのきれいな砂浜で驚いた記憶がある。砂浜の中ほどにある大きな岩を境にダイヤ浜と水晶浜に名前が分かれていると地元の方から。近くの海辺の砂は遊び場にあるような普通の茶色い砂で、ここへ来るまでそれが当たり前と思っていた。白砂青松とはこういった風景のことでしょう。若者のグループが何か遊びに興じている。砂浜を見るときっとカップルが描いたのだろう、目立つハートマークが残っていて、もう読めないが何か名前のような字も見えほほ笑ましい。手にとった砂を拡大して見れば、花崗岩の石英なのでしょうか、さらさらした白砂。ここは若狭国定公園、日本の水浴場八十八選の看板。向こうに関西電力美浜発電所が見える。まだ行ったことがないので玄関先にある美浜原子力PRセンターまで行く。まだ開館前であったが、出勤してこられた職員の方が親切でパンフレットなど持ち出してくれる。敦賀半島の道路事情や最近の浜のことなどあれこれお聞きし、その後おおいに役に立った。


投稿者 sensyu : 23:25 | コメント (0)

2010年05月09日

佐久間大尉生誕地

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 若狭路を走っていると目についた案内板、佐久間大尉の名が。一瞬ではあるが日露戦争時の広瀬中佐と勘違いしたが、神社入り口の碑を見てそうかと思い出す。歴史でいえばまだ近い過去に立派な方達がたくさんおられた。初めて見る碑には「殉難艇長 佐久間大尉生誕地、元帥伯爵東郷平八郎書花押」とある。わたしの近くの花筐公園にある忠魂碑と全く同じ東郷元帥の署名を他で初めて目にした。奥へ歩き行くと、「沈着勇断」と大書された顕彰碑があり、その奥石段の上に墓がある。墓の前で礼拝中の方、御親戚の方だろうかと思い、お聞きすれば、佐久間家と全く関係のない方でご夫婦で山口県からおいでとか。佐久間艇長の第六号潜水艇は山口の沖で沈没、そのご縁でお参りとお聞きする。偶然とはいえ、何か引かれるものを感じ、いろいろお話をお聞きした。その手記に最後まで部下の家族への配慮を求めた人柄は、後の沖縄戦での県民に配慮を求めた司令官に繋がる思いであり評価高きは当然だと思う。帰り地元の高校生から、ここで年一回2つの小学校の5、6年生が参加し勉強会があると聞く、音楽隊の演奏もありそれは盛大とのこと。

佐久間勉艇長
明治四十三年四月十五日山口県新湊沖で呉第一潜水艇隊が潜水操練中 佐久間勉大尉の指揮する第六号潜水艇は機関に故障を生じて遂に沈没したが そのとき艇長は従容として悲壮な遺書を認め乗組員十三名と共に殉職した 艇長享年三十二才

(墓の横に)
呉第一潜水艇隊第六号潜水艇ニ長トシテ明治四十三年四月十五日周防國新港沖ニテ潜水操練中沈没部下十三名ト共ニ殉難ス享年三十二

佐久間艇長の歌
一、
花は散りても香を残し
人は死しても名を残す
あっぱれ佐久間艇長は
日本男児の好亀鑑

一、
これをはじめと部下諸員
少しも乱るヽ様もなく
息絶ゆるまで我が任務
守りし様ぞ知られける

投稿者 sensyu : 22:53 | コメント (0)

2010年05月08日

熊川宿

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 思った以上に長く続く宿場町を歩く。地元の何人もの方からいろんなお話が聞けた。山車のこと、お寺のこと、神社のこと、家並みのことなど興味が尽きない。伊藤忠商事社長の生家、旧逸見勘兵衛家とか古い建物が並ぶ。何度も火事にあっているそうで、一番古い建物で199年経つとか、それでは来年はきり良く200年になります。山車の西陣の絵布は自慢、公民館らしき中も案内していただき他の図柄も見ることができた。寺では戦国大名細川家との繋がりなどご住職から。また別の方に狭いところに神社が2つもあることをお聞きすると、詳しい方が出てこられ、それで松木神社のいわれ、義民という言葉も知った。宿場中ほどでワイワイ女性陣の焼く焼き饅頭、クリーム入りを歩きながら食べることができるのも旅ならでは。

http://www.awatabe.com/fukui/kumagawa/


松木神社

 関ヶ原の戦のあと若狭の領主となった京極高次は小浜湾に臨む雲浜の地に壮大な城を築いた。そのため領内の百姓には年貢の増徴か労役の提供など多くの負担がかけられたが、特にそれまで一俵四斗であった大豆年貢が四斗五升(または五升)入りに増額された。そして、この制度は領主が酒井忠勝になり、天守閣も造られて新しい小浜城が完成しても改められなかった。
 苦しみにあえぐ百姓たちは年貢引き下げの嘆願運動を十数年にわたって繰り返したが、小浜藩では全くこれを聞き入れなかった。捕縛投獄の抑圧にも屈せずあくまで年貢軽減を訴え続けた上中町・新道村庄屋松木庄左衛門は、慶安五年(一六五二年)五月十六日ついに日笠川原で磔の刑に処せられた。
 しかし、悲願は聞き届けられ大豆年貢の引き下げは実現した。時に庄左衛門は、二十八歳の若さであった。
 義民の遺徳を永久にあがめ謝し奉るために、昭和八年ここに松木(まつのき)神社が創建された。

投稿者 sensyu : 01:49 | コメント (0)

2010年05月07日

レインボーライン

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 レインボーラインは三方の遊覧船と共に若狭の観光名所。できてまなしのまだ黒いアスファルトの上をワクワクしながら車を走らせた記憶も遠い遠い昔。山頂公園はとてもにぎやかになっている。それにしても県外ナンバーがずらりと並ぶ様はさすが観光若狭。連休は渋滞もあって夏の海水浴シーズンかと見間違う。駐車場の係りの人達の誘導が上手。パノラマ撮影は山頂より一歩下の駐車場のほうが見晴らしがよいと思ったが、逆光になるので難しい。

http://www.awatabe.com/fukui/rainbow/index.htm

投稿者 sensyu : 02:01 | コメント (0)

2010年05月02日

紫式部公園

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 白や紫の藤が咲き出し、ふじまつりがあるそう。この公園は、たまたますごい雪が舞う中、冬にも一度来ている。寝殿造りのある池は豪華、朱塗りの橋も絵になる。武生は昔から教育の匂いが強い町、そんなところが公園の作り随所に感じられる。遠くを眺める紫式部のふくよかなお顔が印象的。


 聡明で身も心も美しい女性像として創造された金色の紫式部像・・・で始まる碑文、『石の心、樹の心を尋ねて甦る「作庭記」の世界』
庭園は「作庭記」の真髄を今に甦らせた現代の名園である・・・と格調も高く締めくくられている。

投稿者 sensyu : 23:41 | コメント (0)

2010年05月01日

グリーンセンター

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 丸岡にある県総合グリーンセンターへ初めて。パークへ入るとユニークな建物、お聞きすればこの建物は子供達600人もの収容力があり、食事や休憩などに使うらしい。大きな温室もあり見ごたえがある。桜がきれいで名札を見れば、松月(しょうげつ)とか、思い川桜などすてきな名前が。木の名前を当てるクイズとか工夫されている。今は花水木やドウダンツツジなどが目立ち、他にも憶え切れない種類が生育されている。池ではイカダ遊びの姿、凧揚げに興じる家族。きれいな池もいくつか配置されて水面に映る景色もいい。たくさんの花木を見ながら、以前地元フラワーセールで花のことばかり考えていた一時期があったことなど懐かしく思い出す。

人工の滝や清流の流れ・動画(25/sec)

投稿者 sensyu : 00:03 | コメント (0)