2007年03月30日

花筐公園の桜開花

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 昨日福井県では福井気象台による開花宣言があった。早朝、ここ越前市花筐(かきょう)公園でも同じくまだ数えるほどだがソメイヨシノに開花が見られ、公園に活気がみなぎってきた。同じ木で見られた昨年の公園一番桜は4月8日であったから10日も早い開花となった。今日より昨年のような日程で開花が進んでいくと思う。公園内にある小さな山桜2本は満開となっているので桜が見れないことにはならない。何となく一安心。東京は満開とTV報道がにぎやかだ。ほんと、桜はきれいですね。

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中国のお茶

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 中国のお茶をいただいた。越前市で働く娘さんの中国の両親がおみやげに持ってこられたものだそうだ。お茶の他にチョコレートなどもあった。品物にはいろいろ書いてあるが上海の文字が目につく。大変立派な箱に入っていて中国製品は廉価というこれまでのイメージはそこにない。身の回りはどんどん国際化している。昨日だったかテレビで、英語を教えにイギリスから訪日していた女性が殺害され、日本は治安がいいと聞いていたから安心していたのにと記者会見で親と婚約者が涙ながらに訴えていた。当たり前のことではあるが、どこの国も親や恋人間の情愛の深さは同じであるとつくづく思い胸が痛んだ。治安の低下は精神的な荒廃からきているのかも知れない。もしそうであるなら精神的な荒廃はいったいどこにその原因があるのだろうか。今ネットでは東京でのある候補者の政見放送の動画が反響をよんでいる。この国を潰せと声高々に唱える姿に異常なものを感じるのが普通であるが、そうとばかりも言えないのはその背景が既に大きく病んでいるかもしれないからだ。原因があるから結果がある、自明の理ではなかったのか。

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2007年03月28日

お呼びでない

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 植木等さんの訃報はある意味親を無くしたような感覚がある。それほど多感な時代に大きな影響を受けたということになる。無責任、はいそれまで、と言いながらも底に流れる熱い人情はあの時代にしか無いものであったと思う。あまりに激しく合理化していく世の中で、どうにもついていけない感覚とのずれがスーダラ節を生み出していき、いい意味での緩衝剤となった。植木さんのすごみは実は晩年にあったように思う。ドラマなどでの年配の役はどうにも芸というよりその人そのものが出ていたように思うし、深く顔に刻まれた年輪は大変な説得力を持っていた。おおいに笑わせてもらい、また大いに人生の厳しさを教えてもらったような気がする。「お呼びでない」いつ笑おうか身構えて待つ楽しさは常に家族の団欒の中にあった。


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2007年03月25日

能登の地震

 お隣石川は能登を中心に大きな地震があった。次々と報道される映像はその生々しさを伝えてくる。春先とはいえまだまだ外は冷え込む。被災者の方々のご苦労はいかばかりか。少し離れた越前とはいえ家は大きく揺れた。長い揺れに悪い予感がしたが、何度も行ったことのある能登や輪島の名前に驚いた。小さい頃よく地震があった。外へ飛び出してはいけないと親に言われたことを思い出す。屋根瓦が一気にズッテくるからと聞いたような。あの頃の大人は福井地震を経験しているからか教えは大変具体的であったと記憶している。ブログをいろいろ見ていると鳥が卵を産まなくなったとか、いろいろ自然界での予兆もあるようだ。福井豪雨の時も川の魚に異変があったことは耳に新しい。そういった方面の研究をもっと大々的にやるといいような気がするが、きっと釈迦に説法ですね。

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2007年03月24日

一番桜

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 雨が降っていたが何となくそんな気がして公園へ足が向いた。冷たい雨の中一本だけかわいいい桜をいくつか咲かせている木があった。この木は確か根尾からの分け木であったような。全山まだ蕾も膨らんでいない中にあって可憐な感じがした。たまたま居合わせた学生の方たちに傘を差してもらいながらの一番桜ゲット。分け木と言っても1年がんばった桜、ままこ扱いはできない。今年は暖冬ということで、全国桜の開花予想を早めてのイベントにいろいろ支障もあったように聞く中、心配なことだ。私のお店のボンボリも見つけ、この場所でまた花見ができたらいいなと思いながら、雨の中ひさびさに一人歩く公園はとても峻厳な雰囲気があり軽い緊張を覚えた。

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2007年03月09日

ポストの威厳

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 赤いポストの存在感はそれは大きかった。背伸びしながらおつかいのハガキを入れたなど遠い思い出となってしまった。家のすぐ近くにあったのでなおのことだったのだろう。帽子をかぶり口があってお腹から出す。ロボットの元祖なのか。その頃は「鉄人28号」なんて人気の漫画があった。すごい力を持ったものへの憧れがあり、どこまでも人間臭い姿が好まれたのではないか。どうして今の四角い箱になってしまったのだろう。何気に見て感じたのは、どことなく擬人化されたその姿が、戦前の頃の多くのイメージと重なって見えたからなのか、それとも値段が高かったのか、分からない。赤ちゃんから大人まで慕われたであろうポストは頼りがいのある姿で確かにそこに立っていたのだ。昔のものはポストから建物にいたるまで、重量感というか威厳というか決して裏切らない、そんな気があたりに漂っていたような。

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2007年03月08日

夜空

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  小学校の5年生の頃だったか直径15㌢という途方も無く大きなレンズを手にし、長さ1.5メートルもの屈折望遠鏡を自作したことがある。その頃今よりもっと空は澄んで、周囲も暗かったおかげもあってか、自宅からいつも星を見ていた。最初に見たのは月、クレーターが目の前に大きく現れた時は驚いた。金星の大きな三日月、木星と4つの衛星、土星の輪、太陽の黒点、それからスバル星団、オリオン星雲、アンドロメダ星雲などなど、一通り眺めたが


 
  やはり天の川を倍率を低くし、これで見た時の感動が一番であった。肉眼では6等星までしか見えないがこれだけ口径が大きいと12等星ぐらいまで確認できたのではないかと思う、目の前にいろんな色の星が圧倒的な輝きで飛び込んでくる。時間を忘れるという経験を始めて体験した。今だにカラオケなどで歌う「見上げてごらん夜の星を」のレパートリーの原点はここにある。夜空で、仲良く隣り合う星も立体的な視点から見れば、光年という単位で実は遠く隔たっているという。今では誰でも知ってることだが天の川の帯は太陽系を含む渦巻き銀河を横から見ている。初めてその事を考えた人はもう尊敬します。隣り合っていても実は遠い距離を持つ、これは人と人との関係に於いても言えることだ。しかし物質的な距離は理解しやすいが、精神的な距離を感じるということは簡単に説明ができない。自身が目を閉じればこの世界は見えないが、それでも確かにそこにあると体験で言っているだけ、そう信じているだけなのか。"そんな遠く果てしない"ことを考えさせてくれるのも「夜空」
 

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2007年03月06日

傘と提灯は

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 「傘と提灯は早く返せ」という諺がある。これは用がなくなったら借りたものをすぐに忘れてしまうからと言えば身に覚えもありそうだ。また長い人生の中いったい何本の傘を置き忘れたことか、思い出せない数であったような気がする。傘も今では大変廉価になったようで、傘やのご主人が最近は傘も景品になるような時代と口説かれているのを聞いたこともある。この辺では洋傘のことを「こんもり」と言う。こんもり傘の思い出はみなさんいろいろお有りではないかと想像する。

 
 有る時期、電車通学の時などで、当時のヤングは傘を逆さまに持っていたような気がする。長靴の外へズボンのすそを出したたんだ傘は逆さまに持つ、若者のファッションはいつの時代もこのように些細なことにこだわるのが良とされた。今のお臍を堂々と出しズボンをギリギリ下げ、目のやりばに困るようなファッションから見ればかわいいものである。また黒板などに三角と直線で傘のイラストを書き左右に男女の名前を書いてはやし立てた風景はどこかほのぼのとした記憶となって、そこには今の生き死にに関わるような陰惨ないじめという陰は微塵もなかったように思う。

 さて、傘と言えば「核の傘」などよく聞くことば。沖縄返還に活躍されたという若泉敬氏の名前が思い浮かぶ。戦後命がけで政務に携われた方もおられたのだと郷土の後輩として考え深い。ひとりそう思うだけかも知れないが、地元でほとんど語られることなく今日あるは寂しい気がする。ふるさとに込められた響きと願いの中に満ち宿るもの、それはどういったものなのか考えてみたい。例えば傘の作る日陰の中にもその答えのひとつがありそうだ。
 

 

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2007年03月05日

井の中のかわず

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 "大都会"粟田部という文を目にし、朝から大笑いさせていただいた。もちろん"大都会"はユーモア。なるほど外からは粟田部もそのように見えるのかと妙に感心した。しかし笑われようが、ここで生まれ育った者にこの町はとてつもなく大きい。複雑に絡み合う人間関係や路地の津々浦々まで続く町並みの完全な把握など未だにできていないし、結局できずじまいで終わると思っている。住んでいる者にはそういった意味での複雑さがよく判っているだけに、人とかお店とかの紹介なども簡単にはできないものだ。SNSでもいい日記を目にした。「物事は有ると思えば有る、無いと思えばない」禅問答みたいな感じで般若心経などをベースにして丁寧に解説してあったものが目についた。人の行動半径など知れたもので、一生のうち行かないところの方が断然圧倒的に多いと思う。「井の中のかわず大海を知らず」と言ってしまえばそれまでだが、


 
 井のカワズにとってはこの井戸こそ正に有るのであって、その他の世界は人が有るというから有るんだろうといった認識程度というのが本音かも知れない。西洋ではこれに似た諺に「一度も村から出た事のない者は自分の村の鐘つき堂しか見たことがない」と言うのがある。このところの金属高騰の余波は消防の半鐘にまで及び鐘を見たことが無いという時代がくるのかも知れないと笑えない。さてカワズと言えばカエル。このかえる君が年々減ってきているそう。カエルは田の害虫を食べてくれる大事な生き物で、減少すれば生態系に大きな影響が出るとか。あぜ道などにあるコンクリートの側溝壁が問題とか、やはり人間の仕業であるようだ。小さなかわいい緑色のアマガエル手の平に乗せて遊びませんでしたか。

ふる井戸のかわずに雪なしふる日差し
 

 

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2007年03月03日

古墳ってやっぱり

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 一面トップに大きく「継体稜に巨大石組み」と報道された。大阪府は高槻市の今城塚古墳とある。高槻には親戚もあり何度かおじゃましたことがあるので、継体天皇の古墳があることは以前より知っている。福井県は継体即位1500年ということで、この発掘をナイスタイミングと捉えたと思う。何故今城塚古墳と呼ばれるのか、ほんとうに継体稜なのかはネット上にいろいろ詳しくあるので、ここで書くまでもないですね。おおとの皇子の校歌を歌い育ち、所縁の佐山姫の住まわれたという所で、こうしてキーボードを打つ身にすれば、継体稜はもちろん気になるところです。

 早速Google Eearthで見にいきましたが正直上空から見た感想は複雑。学術の名の下ではあんな風になるのか。美しさを保ちながらの発掘はきっと難しいのでしょうね。ところで、古墳ってお墓なんでしょう。何千年たったら何をしてもいいのかな。人は未来永劫生きたい、肉体は滅んでも魂は生き続けたいと願う気持ちは古代の方がもっと強かったように思う。だから、死後の静寂を求め力に応じて山のような頑丈な古墳など作ったのでしょう。そう言えばあのキリストでさえ、何日か前お墓が見つかったとかネットに流れていたし写真も見て驚いたばかり。言葉は悪いけど何でも「アバク」時代なんでしょうか今。自分の先祖のお墓だったら絶対いやだと思いませんか。ピラミッドや始皇帝の墓、キリストまで、、、だからといって日本は日本でいいような気もしますが。最近では堂々と「無神論です」「死んだら終わり」など胸を張って言われる方もたくさんおられる世の中ですから、もう仕方のないことなんでしょう。ささやかな抵抗、こんな感じであって欲しい継体天皇稜、3D楽しみながら越前より遠く高槻に思いを馳せる。

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2007年03月01日

記録的暖冬に

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 1899年観測以来最高気温を更新、今年の暖冬は記録的となったそう。1889年といえば伊藤博文や福井ゆかり岡倉天心、また樋口一葉などそうそうたる名前の羅列が煌く時代。以来誰も経験していない冬を過ごしていると思えば、それなりに考え深いものだ。ここまでくると「よかった」から「気持ちが悪いね」と挨拶も微妙に変化してきている。道路に全く雪がないのも変に落ち着かない。慣れとは恐ろしい。さて道路と言えば車のナンバープレートの話、

 富士山ナンバーが出来るらしい。他にもいろいろその土地を表すような名前のナンバーが許可されていくとか。観光に一役買うというのがその動機の一端か。失礼かも知れないが何につけ硬いと思われがちな役所にしては珍しい。あまりに強引であった合併後のギクシャクとした空気懐柔策と見るのは穿った考えか、または県境を無視し道州制への布石とでもいうならそれはそれでらしいと納得もできようか。いずれにしても楽しそうな企画と映る。すると、この辺は福井ナンバーから越前ナンバーになるのかも知れないと想像してみる。ちょっと一昔前と断って、福井ナンバーは都会であまりよく言われていない時代があったようだ。停止線オーバー、唐突な車線変更などが主な理由であったよう。大阪でタクシーに乗った時、運転手さんから直に聞いたこともあるからほんとうだったのかも。これには肩を持つようだが、慣れない都会の何車線もある道路と多くの一方通行の道路が影響していたのではないかと今では思っている。そんなこんなを思えば過去のイメージ一新で「越前」も悪くないかもと思えてくるが、何でも「越前」さえつければよいかと言えばあまりに芸がないと、自分も含め(笑)思えてくるのはどうしたことでしょう。

投稿者 sensyu : 22:55 | コメント (0) | トラックバック