2010年08月30日

原爆展

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 永平寺で原爆展を見る。これに合わせ拝観料は無料となっていた。想像していた通り悲惨な写真や展示物がたくさんある。

 京都や新潟も投下候補になっていたそう。その瞬間止まった時計。そのとき数え切れない人の人生も時計と共に止まった。黒こげになった三輪車。そこに言葉にならない苦しみを感じる。いろんな人のいろんな人生を一瞬で奪ってしまう、何と残酷なことか。苦しかったでしょう、悔しかったでしょう。原爆許すまじ。抑止力もくそもない。保有国は生き物全ての敵である。法要が営まれていた。心深く染み渡る僧達の読経と世界平和を訴える声を聞かせていただき幾分か心和む。

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2010年08月29日

水害対策総合訓練

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 武生東運動公園にて早朝より福井県越前市水害対策総合訓練に参加。大変な炎天下でそれだけでも訓練という感じ。自動車水害対策訓練があり興味を引き、人気もあったようだ。


 水でドアが開かなくなったとき脱出の為、中からハンマーでガラスを割るという訓練。フロント・リアはフイルムが入って割れにくいから席横の窓ガラスを割るとよいそうだ。それも真ん中とか上部でなく前下の部位を叩くと効果。腕は振らず手首のスナップで、実際目にするとよく分かる。大変説明も分かりよく、みなさん頷いておられた。あとここに福井県丹南地域防災基地があって、災害時の備蓄がされていると知る。

http://www.awatabe.com/training/

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2010年08月23日

永平寺大燈籠ながし

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 昨夕、九頭竜フェスティバル・永平寺大燈籠ながしの会場入り、福井と大野からおいでのカメラマンの方達とすぐに仲良くなり会話。空はまだ明るいが月が出ている。月明かりの中、きっとすばらしい燈籠ながしに、

 コンサート会場からきれいな笛の音。会場に多くの燈籠が積まれ、たくさんのテントも建ちいろんな販売で大賑わい。鮎の塩焼きの煙と匂いが印象。仲良くなったカメラマンの方と川辺に陣取る。150人の永平寺役寮雲衲衆による読経の声に合わせ、その方は目を閉じ手を合わせておられた。燈籠には供養燈籠と願い燈籠があり、その数1万基が流れるという。暗くなり起点から大本山永平寺監院大田大穰老師が第一燈目を、ファインダーの中に見る。それに続いて燈籠が徐々に増え流れ来る様は言葉にならない美しさと厳かさに包まれていた。燈籠もほとんど流れたころ始まった花火も綺麗であちこちから歓声。帰り駐車場に並ぶ観光バス、富山とか浜松などのナンバーにさすが永平寺、時計を見れば9時、深い余韻の漂う中帰路。

花火の中静かに流れ行く最後の燈籠・動画(30/sec)

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2010年08月18日

サマーフェスティバル

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 8月13日第5回越前市サマーフェスティバルふるさと踊り2010に、昨年に続き2度目の参加。今年は第1部と2部に別け、どちらかに踊りそうでないときは観客になる自由行動だったので祭りを楽しむ時間の余裕ができる。

 いまだて踊り連はふれあいプラザから5時半頃バス何台かで出発。生憎雨が降ってきたので市役所内で時間を過ごす方が多かった。雨の為か、開会式も役員の方だけで済ませたよう。JR武生駅前交差点から総社大神宮まで、市役所前の一筋の道路が踊りの会場。昨年街中が少し寂しかったからの変更かも知れない。いまだて踊り連は第2部に参加だったので、1部の踊りを見る。先頭は障がい者支援センターひまわり、続いて国際交流の隊が、外人さんが浴衣で楽しそう。こういった踊りの行列からも市のカラーを窺うことができる。表彰式ではなんと今立が山車と踊り両方ともグランプリ1位となり優勝賞金も手にした。表彰式のとき今立のユニホームばかりが目だったような気もしたが、雨のせいかも知れない。トレセンでの踊りの練習も実り、帰りバス中は盛り上がる。

http://www.awatabe.com/fukui/echizen/odori/

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2010年08月16日

越前市花火大会

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 昨夜越前市サマーフェスティバルの花火大会へ。相当遠くから歩いて会場入り。6時半頃既に大勢の観客で日野川堤防沿いは埋まっている。万代僑の下へ降り撮影場所を確保。周りの方と会話しながらの楽しい花火となった。


 子供の頃は足羽川河川敷きで花火を何度か、大規模な仕掛け花火が多かった。そういえば、同じ頃、花筐公園の中段でも仕掛け花火があり、花火も打ち上げられた記憶がある。町のお世話をしていた頃、そのことを思い出し当局と交渉したが危険とのことで再び実現させることはできなかった。さて、福井県下最大クラスの1万発の夏祭り花火、クライマックスの越前富士を形どったナイアガラの滝に点火され、歓声の中終了。常に適度な風があり、煙がこもることなく綺麗な花火が見れた。若い人達の浴衣姿も多く見られ、お盆の雰囲気満点。

http://www.awatabe.com/fukui/echizen/hanabi/

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2010年08月07日

九頭竜ダム

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 正式には傾斜式土質しゃ水壁型ロックフィルダムというそうで、高さ128m、長さ355m、昭和42年12月竣工と表示があった。放水した水を下流の鷲ダムから夜間の余剰電力で揚水、効率よく再利用しているという特長がある。ダムへ行く前に道の駅で一服、

 以前はなかった恐竜が出迎えてくれる。あまりによく出来ているので子供も大人も言葉なしという感じでみなさん驚いていた。側を車が走り映画の1シーンの感じ。坂を登るとロックダムが眼前に現れる。何度見ても迫力があってすごい。淡路島からという大型バイクでツーリング中の若者と楽しく会話。ダムでは京都からおいでの方とカメラのことなどいろいろ。久しぶりの九頭竜は記憶のままの雄大な風景。満々と水を湛えるダム湖が綺麗。

http://www.awatabe.com/fukui/rockdam/

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2010年08月06日

蓬莱の里

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 池田と大野の途中に蓬莱(ほうらい)の里という案内板。ハンドルを切って訪ねてみた。古風な屋敷とその前の畑に咲く大きなヒマワリが目に入る。偶然この里に詳しい方とお会いしいろいろお話を。

このあたり一帯は、朝倉氏以前、岐阜から移り住んだ豪族伊自良氏が治めていたそう。その跡も発掘され発掘品の数々はまだ開館時間前で見学はできなかったが、赤心資料館に展示されているとのこと。目の前には伊自良温泉も見える。岐阜にはこの伊自良氏に関する史跡乏しく、ここまで視察もあるそうだ。福井では朝倉氏以前はあまり語られることも、これからもっと有名になっていくのかも。足羽川堤防にあった桜が移植されていて親しみを感じる。近くの山では明治期まで金が採れたそうだが、含有量から採算の問題もあり現在はその跡を留めるのみ。

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2010年08月05日

月夜見の池

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 今立の月尾谷へ仕事で行ったお家の方から、近くに継体大王ゆかりのハス池があるとお聞きし帰りに寄ってみる。大きな鳥が二羽遊んでいたので静かに近づく。

 このあたりの地名は轟井(とどろい)。その昔、継体大王が殿池に三ツ車に乗って月見にこられたので、三ツ車で轟、池は井、という由来。地名にはこうした由緒あるものが多くいつまでも大事にしたいものです。こんな近くでたくさんのきれいなハスを見れるとは。この月夜見の池には睡蓮もあるそう。ハスはお盆になると村中に2本づつ配られるとか、いいお話。ということは、こうして見れるのもあとわずかなんでしょうか、お盆はもう目の前。

http://www.awatabe.com/fukui/echizen/todoroi/

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2010年08月04日

仏御前の滝

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落つる涙を押さへて、今様一つぞ歌うたる

 細く長い階段を一歩また一歩、登り行く、そこに平家物語の世界が開ける。平清盛に翻弄された妓王と仏御前の称名、滝の音となりて人の生き方を今に問いかける。

 仏御前は福井県九頭竜の仏原ダムに沈んだ仏原栃沢の生まれ、滝の名称は仏御前がこの滝で顔や髪を洗ったからだと伝わる。清盛入道をひと目で虜にした御前の美しさは、この滝の美しさと重なり容易に想像できよう。荒島岳からあふれ出る落差100メートル、3段の滝は水量も豊富に流れ落つ。帰り階段ですれ違った方一人、仏御前の世界へ憧れてとお見受け。

仏も昔は凡夫なり 我等もつひには仏なり
いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

仏御前の滝、動画で(40/sec)

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2010年07月24日

涼を求めて一乗滝

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 こう暑いと思考力も鈍って、何でもいいから手軽に涼が欲しく。思いついたのがやっぱり滝。あの砂浜の照り返しのせいだろうか、海は暑いというイメージが先に湧いてしまう。一乗滝に向かう。河和田からの道を聞いたのでそうしてみる。

 通り道きれいな花、何故か島町、小川は田舎ふるさとのイメージ、そうここは月尾谷、一筋、道を間違えている。戻って、服間からトンネルをくぐり河和田。漆器会館で数え80になるという徳さんの実演、福井豪雨の時の様子や仕事のことなど話し込んで大幅に時間。ついこの間、鳩山元総理もおいでとか、買われたお椀の横に写真。一乗滝へ向かう。ふもとでは大勢バーべキュー。滝壺では子供達が足を入れてはしゃいでいる。飛沫が飛んできて気持ちよい。帰り、緑いっぱいの朝倉氏遺跡前を通る。

 今日お店で、お客さまとの会話。暑いのと寒いのとどちらがいい?それはまだ暑いほうがいいわ、寒いのはかなわんのぅ、とご返事。ここはやはり雪国なのだと自覚。

滝を動画で見る(35/sec)少しは涼しくなるかも

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2010年07月21日

広野ダム

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 日野川の上流に広野ダムがある。堤高63m、長さ162mの重力式コンクリートダムと表示がある。これまでに何度か訪れ、今庄からサイクリングで来たこともある。長い坂道を登り目の前に美しいダム湖が現れる。

 まだ今立と武生が市町村合併で越前市になる前、夏に時々水道が断水したときなど、気になって水量を覗きに、役場の車と鉢合わせしたり、一度などダム湖の奥の湖底が現れるほどの渇水があり、このダム底を歩くという体験をした。小川の跡にかかった橋や道路などそのままで、そこここに人の生活を感じ不思議な気がした。ダムが出来、湖底に沈む村の話はよく聞いた。一面泥の灰色に染まった光景は怖くもあり強烈な印象として残っているが、穏やかな湖面から想像することは難しい。福井にはこのほかにも九頭竜湖など風光明媚なダム湖がある。

http://www.awatabe.com/fukui/echizen/hirono/

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2010年07月17日

日野川

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 日野山があれば日野川がある。万代橋付近の河川敷に車を止め散歩。今日は全国的に梅雨明けが報じられ、日差しが強い。遊歩道をランニングする方も。吊橋風アーチ中心には「紫式部の武生です」と書かれている。

 この河川敷で恒例の夏祭り花火大会も近い。流れが段になっている所に鳥らしきもの、早速望遠で。帰って拡大してみると何だか鳥の置物みたいにも見える。この鳥はずっと動かず辛抱強いと感心。あんな場所にわざわざ人形なんてやっぱりおかしい。未だに本物の鳥だったのか半信半疑。今度通って見ればはっきりする。気持ちよさそうに水鳥が二羽泳いでいる。こちらは間違いなく本物。

http://www.awatabe.com/fukui/echizen/hino/

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2010年07月13日

汽車の旅

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 今でも汽車の旅と言うのだろうか。本物の蒸気で走る汽車に乗った記憶があるので、電化された電気機関車を汽車と呼ぶのにほんの少し違和感があった。今ならJRの旅とか鉄道の旅とか言うのかも知れないが、やはり汽車の旅という響きは心地よい。

 今庄にD51が飾られている。記憶もやっとの子供の頃、これに乗って家族で京都へ行った。ホームに入って来るときのものすごい迫力。山越えはスイッチバックといって、後ろにも一台汽車を連結、そして前後しながら山を登っていく。汽車の辛そうなボエーという汽笛を何度も聞きながら、途中いくつもトンネルがあって、そのたび黒煙を避けるため窓を開けたり閉めたり。今から思えば、今庄のあんころ、お茶、ゆで卵などに囲まれ何時間もかかった優雅な旅。その後、北陸トンネルができて京都・大阪は近くなった。雷鳥の食堂車はよくお邪魔した。京都からの帰り、食堂車で食事をしていると、座席へ一度も戻らず福井へ着いてしまうという楽しい経験を何度か。サービスもとてもよかったことなど懐かく思い出す。

 このところJR武生と鯖江の短い区間を何度か乗ることになり、昔との違いを感じる。駅では女性の駅員さんがマイクを持って到着列車の案内や改札。昔乗った雷鳥の姿を見ることなく、ほとんどサンダーバードしらさぎが往復している。最近乗っていないせいかサンダーバードとしらさぎの違いがはっきり分からなかった。昔ドンコといって普通列車は独特な雰囲気を持っていたが、それからみると今乗る普通列車がとても豪華に見えた。武生・鯖江間は180円、乗車時間5分の汽車の旅。

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2010年07月11日

水草・バイカモ

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 子供の頃、夏になると金魚売りがやってきた。独特の形をしたガラス金魚鉢、確かではないが、そこに入れる水草を自転車に乗って採りにいった記憶がある。今はもうないが五分市の南越線駅の側の川に流れに沿ってゆらゆらしていた草、バイカモというらしいが当時はただ水草と呼んでいた。

 透明な水の流れは何より美しい。ここ上真柄町治左川では湧き出る水をポリに入れて持って帰る人もいた。ここにはイトヨという魚が住むそうな。きれいな川の中をみんなでどこまでも歩いていった、そんな懐かしい思い出を持っている。遠くは四万十川の源流で泳いだことがある。魚達が空中を泳ぐ、透明な水の中には驚きの世界がある。

http://www.awatabe.com/fukui/gobuichi/

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2010年07月09日

蓮(はす)の歌

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 蓮・ハス、はハス科の多年生水草で仏の花のイメージ、釈迦は生れたときハスの上を七歩あるかれたといわれている。また、れんこんは食用に。ハス、古くは万葉集にハチスの名で出てくる。「勝間田(かつまた)の 池はわれ知る 蓮(はちす)なし 然(しか)言ふ君が 髭(ひげ)無き如し---婦人(をみな)」

 あなたに髭が無いのを知っているくらい、奈良のあの大池にはハスはないと知ってますよ、この嘘つき、と皇子に婦人からの返歌。ハスの花弁のような柔らかい会話。花が散った後の台が蜂の巣に似ているところからハチスと言われたそう。早朝にもかかわらず蓮池の周りに既に10人以上のカメラマン、時間とともに増えていく。「白蓮のひらくをきゝてさまよえるこの暁のすがすがしけれ」と言う歌があり、昭和の始め頃、ハス開花時に音がするのか学者による観察研究会があったとか、無音との結果が出たみたいだが、早朝冷えた空気の中、切れるように美しいハスの中に立てば、「ひらくをきゝてさまよえる」は名文であると肌で感じることができる。古事記にも帝が童女を嫁にするとの約束を忘れてしまい、女は老女になって「日下江(くさかえ)の井入り江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛人(さかりひと)ともしろきかも」日下江の入り江に美しく咲くハスのように、若い人達がうらやましい。再開した帝はおおいに哀れんだそうだが、この話は「花筐」の物語にどこか似ているところがある。早朝6時半、花はす公園、三度目にしてようやく多くの大輪のハス、そしてカメラマンの方達と出会う。

http://www.awatabe.com/fukui/hasu/lotus/

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2010年07月04日

選挙とハス

 越前市議会議員選挙告示日。今回直前に定数削減があり、定数2減、22名となる。旧今立からは前回5人の当選者を出したが、今回3人の立候補となっている。

 参議院選挙も始まっているが、政策の違いが見当たらず有権者が戸惑っているとの報道を目にする。発足時から指摘されていたことではあるが、二大政党制の負の一面が早くも顔を覗かせたのかも知れない。イエス・オア・ノウは日本の風土に馴染まない気がするが、もっと怖いのはイエスばかりになることではないだろうか。

 泥の中から美しい花を咲かす、ハスはよく政治にも例えられてきた。昨夜強い雨が降る。早朝5時半頃の花はす公園、小雨の中、カメラマンお二方と挨拶を交わす。

http://www.awatabe.com/fukui/hasu/early/

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2010年06月30日

アカタン砂防

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 アカタン砂防とは、明治の砂防堰堤群(さぼうえんていぐん)のこと。田倉川に注ぐ3.6キロの渓流赤谷川に明治30年代に村内外から、一日2~300人の男女作業員が7年の歳月をかけて9基の堰堤を築造した。これをアカタン砂防と呼び100年を経た今も機能し国指定登録有形文化財に指定されている、

 南越前町に、リトリートたくらという立派な施設がある。広い野外の施設ではバーベキューなどで賑わっていた。しかしそこから一歩山へ入ると、誰と逢う事もなく、と思っていたらサルの群れを見た。サルは動物園という固定観念があり大変驚いた。あまり気にする風もなく同類と思われたのか。九号堰堤、八号堰堤、そしてベースキャンプに車を止め、そこから奥の東堰堤まで歩く。人の力だけで作られたそうだが、気の遠くなるような作業であったと分かる。女性が大勢での千本突き、この堰堤の上で唄いながら踏み固められていったのだろう。手作業に頼るしかない時代、なんだか羨ましい風景に思えるのはどうしてなのか。ここであたりが薄暗くなりかけ、タイムアウト、ここから上の堰堤はまたいずれ。

http://www.awatabe.com/fukui/akatan/

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2010年06月29日

北潟湖畔荘と花菖蒲

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 北潟湖菖蒲園の菖蒲まつりは終わっていたが綺麗な菖蒲を見ることができた。初日は天気がよく花も暑さにしおれ気味であったが、次の日は雨でそれが返って幸いしたようだ。北潟湖畔荘は初めて、

 北潟湖畔荘は福井県あわら市にある。案内された部屋が「花筐(かきょう)」ということで驚く。同室のみなさんも花筐に深いゆかりの方ばかり。正直、偶然を通りこして不思議と思った。湖畔荘の社長それに支配人とお話をする機会が、ここは元国民宿舎であったが民営化されて3年ほど経つそうだ。大変バイタリティある民営化へのお話にこちらまで元気に。カウンター案内や配膳時など、大変サービスが行き届いている。夜はすぐ前にある幻想的な赤い橋、アイリスブリッジを撮影したりして過ごす。 翌朝強い雨が降ったがうまく止んでくれて、菖蒲園まで下駄を履いて歩く。途中サワガニがたくさんいて、下駄のカランコロンの音にあわてて逃げる様がおもしろい。菖蒲を世話している女性の方達のお話では、ここには300種類の菖蒲が。花の少ない場所があるように見えるが、との問いに、花が咲いていない菖蒲はまだ1年だからだそう。それで花の密集している場所とそうでないところが出来ているとのこと、そう日記(きっとブログのことか)に書いてや、とのことであったのでここに。だから今が満開だそう、いい時にこれて良かった。

http://www.awatabe.com/fukui/kitagatako/

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2010年06月28日

花はす公園

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 花はす公園のハスを見る。ここ、花はす温泉そまやまはこれまで何度かお風呂。開店した頃だから随分前になる。はすまつりに少し早いと思ったが、道路にはすでに旗も立ってにぎやか。まだわずかだが、それだけに遠目にも鮮やかなハスが目立って綺麗。

 カメラマンの方も何人か、マクロで撮影の方や、フイルムのすごい立派なカメラを持った方などいろいろ。福井市からの方と咲いたハスよりまっすぐな蕾がいいとか話が弾む。ハス池は「蜘蛛の糸」にもあるように極楽のイメージがある。寺院の宗派によっては木花(もっか)といって木で作った大きなハスの花を飾るが、これまでたくさん手がけたので、ハスの花や葉には思いいれが強い。お話では、これからの土日は車が渋滞するほど都会からも人が押しかけるそう。はす料理もいろいろあるみたいだし頷ける。

http://www.awatabe.com/fukui/hasu/

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2010年06月27日

新田義貞戦没伝説地

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 福井時代行列の新田隊はお馴染み、新田義貞の国指定史跡の名が目についたので寄ってみることに。小さい敷地であったが、お堂と石碑がいくつか。お堂の注連縄は新田氏の家紋(一引両・中黒)入りで特徴がある。お堂の中に石碑。新田義貞は明治になって正一位という最高位を授与されたが、太閤秀吉や織田信長でさえ大正になってからだったと聞く。歴史は勝者によって、という言葉は当たっている。

国指定史跡
燈明寺畷 新田義貞戦没伝説地
明暦2年(1657)農民がこの地の水田から鉄製冑を掘り出した。当時の藩軍学者伊原番右衛門がこれを暦応元年(1338)閏7月にこの付近で戦死したと伝えられている新田義貞のものであると鑑定したことからこの地が義貞戦死の地と考えられるようになった。福井藩主松平光道は万治3年(1660)この地に「暦応元年閏7月2日新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てた。以後此の地は義貞戦死の地とされ「新田塚」とも呼ばれて、今日にいたっている。福井市教育委員会
 太平記に記される新田義貞は今の群馬県で出生。後醍醐天皇に応えて鎌倉幕府討伐の挙兵。暦応元年・延元3年(1338)藤島城付近の戦闘で矢に射られ戦死。遺体は坂井市称念寺に運ばれ、この寺に墓所がある。南北朝時代は年号もそれぞれ違うという特異な時代。

 この出土したという冑はつい最近市郷土歴史博物館での展示を見たばかり、松平光道は千畳敷の墓所を作った方、この大きさの石碑ならお手のものであったことでしょう。ここは初めて訪れたが、駐車にちょっと苦労した。歴史は繋がっていると改めて認識。

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2010年06月26日

大安禅寺と菖蒲

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 月食が見れると楽しみにしていたが雨が降っている。ネットで、『秀頼と淀殿が自刃、「山里丸」の遺構見つかる』という記事を目に。秀頼といえば淀殿、しかしわたしが連想するのは、豊臣秀頼といえば結城秀康。そして秀康といえば、

 大安禅寺の千畳敷にある福井初代藩主秀康の墓はもう何度か訪れている。今、花菖蒲祭で賑わっている。歴史の好きな方ならご存知のように、秀康の名は秀吉と家康から一字づつ。兄の信康からかわいがられた思いからか、立場を代え、孤立していく秀頼を弟のように守っていたことは、大阪落城の悲劇が秀康の死後であったこと、その前の関ヶ原の上杉への配置からも窺うことができる。秀康の墓の後ろにもうひとつ墓が建っている。秀康に殉死した、土屋左馬助、永見右衛門、介錯の侍も追い腹とのこと。このままにしておけば、家老本多伊豆守も自害する勢いであった為、あわてた家康が「殉死すること沙汰の限り」(もってのほか)の下知を出して治まったそう。秀康がいかに慕われていたかが分かる。ここには、4代光通、国姫の墓もあり、複雑な歴史模様も見えてくる。ここを訪れるといつもヒンヤリしたものを感じるが、気のせいとばかりは、、、。きれいだった菖蒲のことを書こうとしていたのですが脱線。

http://www.awatabe.com/fukui/daianji/

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2010年06月21日

ゆりの里満開

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 以前訪ねた時、まだほとんどつぼみだったが、満開の知らせを見て、立ち寄ってみる。何色ものゆりの絨毯が出来上がっていてカラフル。もっと嬉しかったのは何人かのスタッフの方が憶えていてくれたこと。

ユリーム内では今回もいろいろなイベント、バラの絵を上手に描く方にみなさん驚き、実演はすばらしかった。障害を持たれた方達のグループも車椅子でおいでで、ゆりの間を楽しそうに、お茶席も人気があった。こちらの建物はゆりを逆さに形どったものではないかと気がつくが間違っているかも。

http://www.awatabe.com/fukui/yuri2/

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2010年06月20日

APECとライトアップ

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APEC(Asia-Pacific Economic Cooperation)ー福井県で開かれる。いきなり養浩館庭園ライトアップと郷土歴史博物館、両入場無料報道があったので参加してみることに。夕刻、福井市へ入るとフェニックス通りに、これまで見たことのないものすごい警備、

 外国のVIPを多数向かえテロ予防で仕方のないことと思っていたのだが、右翼との睨み合いなどとの報道も目にした。養浩館庭園へは最近一度来ていたので問題なく。夜景ライトアップは綺麗、お合いした福井市からのグループの方達と盛り上がった。帰る頃、APEC参加の外人二人がお出で、簡単な英語で挨拶したら笑顔で挨拶が返ってきた。発音では「エイパック」と聞こえた。時計を見ながら隣の郷土歴史博物館へ初めて、歴史を動かした有名人の古文書がたくさん展示してある。松平春嶽と坂本龍馬、またグリフィスへのカタカナの手紙など印象に。閉館の時間も迫ったので、外へ出て博物館を撮影しているとき、背広15人くらいの集団が博物館に、挨拶すると、中ほどの背の高い外人の方からやさしい声が、これだけの警備の中ではきっと外で挨拶を交わしたことなどなかったかも知れない、などとフッと想像。

http://www.awatabe.com/fukui/youkou/apec/

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2010年06月13日

瀧谷寺

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 瀧谷寺(たきだんじ)は三国駅の近くにある。駐車場横の総受付で拝観料を、それから長い参道を本堂まで歩く。この参道を歩くだけでも来たかいがある。思うに、この参道の距離はそれなりの心の準備の為にあるのか、

 本堂では寺の奥様に案内していただく。朝倉・柴田・松平、歴代藩主に大事にされてきた歴史を持つそうだ。庭園は縁に座り眺めていると落ち着く。岡田啓介の「堅貞」と書かれた横額が目についた。宝物殿には国宝・重文がたくさん、最近何度か目にした柴田勝家の髭を散らしたような花押のある古文書などに興味。福井市から団体の方がおいででにぎやかに、みなさん帰りに門からの浮世離れして見える参道に驚きの声をあげておられた。摩尼宝山・瀧谷寺というせいか尼寺と間違えられることもあるそう。

http://www.awatabe.com/fukui/takidanji/

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2010年06月12日

福井空港

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 福井空港へ寄ってみる。最近ではニュースになることもなくひっそりしている。小松の自衛隊機の発着や、富山の川辺の空港へのジエット離発着は何度か見た。せめてセスナの発着が見れるかと少し期待しながら、

 福井空港の開港は1966年6月30日とか、この年、民主党が結成され、代表は菅直人・鳩山由紀夫両氏であったと聞けば、何か現在に照らして考え深い。1976年定期便が休航、その後1985年に空港拡張、ジェット化空港整備が決定され毎日のようにニュースで滑走路延長に関する状況が流れていたが、今の航空業界の現状を見れば、何が幸いなのか分からない。片隅に並んでいるセスナを見て、子供の頃見た映画「紅の翼」を思い出す。石原裕次郎の主題歌ばかり頭に残り、内容はすっかり記憶圏外。その時見たような気がする同じ青空、目の前にゆったりと時間が流れている・・・空に心があるんなら、翼も夢を見るんだぜ・・・。

http://www.awatabe.com/fukui/airport/

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2010年06月10日

三連水車

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 森の水車という歌を思わず口ずさむ、足羽川頭首工より引かれた水によって回る三連水車。朝倉氏遺跡のすぐ側にあり、ここ「あさくら水の駅」はできてまもない施設。水車が人目をひき家族連れが多く見られる。水車といえば、

池田のかずら橋にもあって人気のスポット。三連水車は粉ひき小屋のひき臼が回るという仕掛けもあって楽しめる。ビオトープの池や小学生の為の体験農園もあり散歩して回れる。ふれあい情報館はモダンな作りで館内はいろいろ嗜好が凝らされて賑わっていた。 あれは水車のまわる音、耳を澄ましてお聞きなさい、コトコトコットン、ファミレドシドレミファ・・・。

三連水車を動画で(40/sec)

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2010年06月05日

ゆりの里公園

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 春江のゆりフェスタが始まっているということで覗いてみる。夏日ともいう天気で少々暑かった。駐車場は満杯の様子であったが誘導の方の指示で運よくスンナリ。係りの方もそう言って笑顔、幸先がよい。ここはもう10年以上も前に出来ているそうだが初めて足を。ユリーム春江という三角帽子のような建物が目印、シンボル。この中で今日はフリーマーケットをやっていて大変賑わっていた。ユリ園は15万輪というだけあって一面に広がっているが、今年は少し咲きが遅いらしい。それでも一角に咲いているユリ群があって楽しめる。また温室のユリもある。スタッフの方達が親切で何でも聞くと2倍楽しめるかも。ゆりといえば「ユリ・ゲラー」「吉永小百合」それに沖縄の「ひめゆりの塔」を連想する。

http://www.awatabe.com/fukui/yuri/

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2010年06月01日

ふるさと商品券

 越前市商工会で「ふくい ふるさと商品券」の説明会があり各商店が参加。越前市では前回どおり武生商工会議所と越前市商工会がタイアップ、越前市限定の「プラチナ スクラッチカード」の説明もある。

6月13日発売
発行金額 1.54億円、1万4千冊
一冊の購入金額1万円、1千円の商品券が11枚セット
1世帯3セットまで
使用期間 平成22年6月13日~9月30日

 全県下の一斉イベントでもあり県下17市町でそれぞれ違った柄の越前和紙を使った透かし入りの商品券も発行されるそう。前回、あっというまに完売したことからみて、今回もそうなる予想とか、売り手も買い手も喜ばれる事業を県の応援の元、これが呼び水となって景気回復に繋がることを期待します。

投稿者 sensyu : 17:35 | コメント (0)

2010年05月31日

宝慶寺

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 池田から大野へ続く道。景色はすばらしいが、一車線とも言えるところが多く、常に車のすれ違いを念頭に、広い場所があればインプットしながら走らなければいけない。山道の頂上とおぼしきところからの景色は圧巻で驚く。頂だけが見える真っ白の白山が鮮やか。偶然お会いした奈良からの方と、あの山が荒島岳だろうかなど話が弾む。坂道を降りていくと 宝慶寺の駐車場が。

 ここは今でも峻厳な修行の場なのだろうと思われるほど山奥。永平寺が第一道場、ここは第二道場。思ったより明るい環境で、広場には重文の旧橋本家住宅も。天気がよかったからかも知れないが、うっそうとした感じはなく明るい。本堂では読経の真っ最中。織田家の墓があるそう、何故と思い行ってみる。説明の看板を読み納得。織田・朝倉の戦い、そしてその後も、因果応報が複雑に絡み合いながら延々と続く歴史の海、しばし想像をめぐらしタイムスリップ。

http://www.awatabe.com/fukui/houkyou/

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2010年05月30日

養浩館

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 初めて養浩館庭園を見学に行く。福井藩主松平家の別邸、江戸期には御泉水屋敷と呼ばれていたそう。明治になって松平春嶽により「養浩館(ようこうかん)」と名付けられる。昭和20年の福井空襲で消失、8年の工期を経て平成5年に完成したという歴史。だから建物はまだ新しく綺麗なんですね。この庭園の池は大変広い、松が目につくのは松平と関係があるのかも知れないなど空想しながら一周り、裏手に梅園もあった。その時期にまた来たい。隣接の歴史博物館との間に春嶽公の銅像があった。この幕末には写真もあったはずだから、そのお顔はその人と重なるはず。たいへんキリっとしたお顔から英邁と今に伝わるも頷ける。帰りは西門より、係りの方が親切で、福井城の外堀の跡とか福井城の門のことなど詳しく。今県庁にあるのは内堀だから、復元外堀位置からみて、その縄張りの壮大さが知れる。

http://www.awatabe.com/fukui/youkou/

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2010年05月25日

写経

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 週末、早朝永平寺で写経をする。予約があったとかで、そこへ入れていただき待ち時間なしですぐに始められた。若い頃京都で以来のこと、やはりこういった場所で少し緊張しながらがよい。正座がよいのか尋ねると、円形の座布団に腰掛、足を組み座禅スタイルでどうぞとのこと、おかげで1時間疲れなく。墨の香が漂うシーンとした雰囲気はいいものだ。


 以前からみると参拝客が少ないとみやげもの屋さんで聞いた。どうしてか尋ねると、不景気だからとすぐに答えが帰ってきた。苦しいときの神(仏)頼みも現代では通用しない言葉になったのか。これまで聞いたことのないような事件や世の中の動きを目にし驚く毎日。寺で見たビデオに履物を揃えるとよいというのがあった。そろえておけば、出かけるとき心が整うそうだ。ちょっとしたところから始められる教えの中に世の中を変えるヒントがありそう。

投稿者 sensyu : 20:53 | コメント (0)

2010年05月24日

越前陶芸村

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 以前からの副館長との約束で宮崎の陶芸村へ行く。もう随分と前、書道の合宿がここであり懐かしい。その頃から益々広々としたよい公園になっている。円形の建物、文化交流会館で展示物見学と挨拶を終え薦められるまま、隣接の福井県陶芸館資料館を見学。学芸員の方に案内していただき大変勉強になった。



 室町時代の双耳壺、昔の釉薬(ゆうやく)は薪の灰が降り積もり自然にできたものとか。横に流れる釉薬の模様も見れた。越前焼は平安時代に常滑焼(とこなめやき)の影響を受けたそうで、三筋壺とか四耳壺のお話。江戸時代になって灰流しを始め、登り窯(のぼりがま)で人工の釉薬が使われるように。越前の古窯といえば、小山富士夫、水野久右衛門、両師の功績が大きいと知る。また、すり鉢の形の変遷なども順に展示されていておもしろい。陶芸の実演も見学できて、轆轤が回るのではなく、人が作品の周りを回るのが特徴、だからすごい大きさの壺もでき展示もあった。展示室は大変落ち着いた雰囲気(撮影許可済み)

 県外から定着している作家の方もおられ、作品も拝見させていただいたのでご紹介。
 陶芸作家 新藤聡子 kozougama@peach.plala.or.jp
 毎日使える、土肌を生かした、シンプルな器をめざされているそうです。

 確か越前和紙にも県外からの若い方達が、がんばっておられました。手仕事、職人の世界はよく分かりますから、みなさんがんばって欲しい。

投稿者 sensyu : 23:26 | コメント (0)

2010年05月18日

明智神社と細川ガラシャ

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 秀林院様のお果てなされ候次第のこと。で始まる芥川龍之介の『糸女覚え書』は関ヶ原の前哨戦ともいえる慌しい中、秀林院(玉姫の法諡)の最後の様子を侍女から見た目で詳しく書いている。日本女性の凛とした生き様、そしてその方の生誕の地が、


 戸の口坂トンネルを出て坂道をおりてすぐ、「明智神社」の石標が以前より気になっていた。いつもの通りまっすぐ行けば福井なのだが、指し示す方角にハンドルを切って見る。明智光秀を祀っているというだけでもインパクトがあるのに、細川ガラシャの名前の看板も目についた。村の中に小さな祠が、側で畑仕事をしている方にお聞きすれば、それがそうだとのこと。何でも、中にはレプリカが入っていて、ご神体はしかるべきところに保管しているそうだ。神社というにはあまりに小さな祠ひとつだが、近辺の三軒でこれまで守ってきたなどお聞きしていけば、また違って見えてくる。ここに馬を繋ぐ馬場があり、朝倉氏遺跡まで飛び石が敷かれていたと子供の頃の記憶を聞かせていただく。光秀は朝倉に仕え三年この地に、そして三女、後の細川忠興の正室玉姫はここで生まれたと言われる。この玉姫こそGratia、ガラシャ、ガラシア、とも言われ日本の歴史にその名が燦然と輝く細川ガラシャその人なのだ。まぁ見て行きなさいと言われるまま、祠の前に建っている「東大味歴史資料館」の中を拝見。最近では観光バスもやってきたと驚かれていた。

散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ
さきだつは同じかぎりの命にも まさりて惜しきちぎりとぞ知れ
雲をなどあだ散るものと思ひけん わが身を草におかぬばかりを

まずは秀林院様お果てなされ候次第のこと、あらあら申し上げたる通りに御座候。

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2010年05月17日

朝倉氏遺跡講演会

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「一乗谷朝倉氏遺跡が今日に訴えるもの」
講師・近藤公夫教授

 30年前武家屋敷の復元、20年前立体復元と続いた、この300ヘクタールの朝倉氏遺跡は日本で最も整備され、国が重要な特別史跡としている。これは日本唯一とも言え、日本の中世の歴史を知りたければ福井へ行けとさえ言われている。


 さて、ここへ来る人達は何を求めて来るのか。歴史であったり、家族での楽しい一日を過ごすことであったりする。そこで過ごした思い出が子供達の記憶の中に残り、日本の文化と歴史を大事にしていくのではないかと願う。そして日本の中世の文化と歴史を知る為に全国から多くの人々が訪れて欲しい。また外国人の日本でのそういった訪れてみたいところの上位4番目にここが希望されているほどだ。幸か不幸かと言ってはいけないかも知れないが、朝倉が織田に負け灰となって地下に埋もれた為、遺跡がこうして残ったとも言える。将棋や陶器など多くの文化が朝倉100万石の元に育ち、また波静かな日本海航路により流通が栄えた。2~30トンもある巨石を積み上げるすごい土木技術も持っていた。武家屋敷の側に町屋など、中世と近世の違いはここを見ることで、江戸時代武家屋敷の理解ができる。朝倉は京都の一条家との繋がりがあり、中世における地方豪族の庭園文化を作った。このような歴史上の朝倉の位置づけは、先の福井豪雨の時集まったボランティアを見て、いかに大事なところであったかが分かる。中世、当時栄えたヨーロッパの文化にひけをとらない文化がここにあった。日本のポンペイであると言われる方もおり、世界遺産としてこれからの方向も考えられる。(ここより質疑応答)海外での評価が高いと言われてはいるが、多くの外国人はまだまだ日本を未開の国であると思っていて、日本に歴史文化があると思ってはいない。訪れてそうでないことを知り驚きの声をあげる。次に石高については朝倉の当時の勢力圏から考えても100万石は妥当である。最後に建物の復元については、訪れる人のイメージを固定してしまうかも知れない、一番大事な事は、今残っている遺跡遺構をそのまま残していくことだ。

 最初、朝倉氏遺跡にこれまで尽力されてきた経過などのお話、その後のお話の要点だけをかいつまんでみました。81歳になられるという教授、いかめしい肩書きからはとても想像できない笑顔を随所に振りまかれながらの講演に大きな拍手がありました。また、会場は先ほどの全国植樹祭で、天皇・皇后両陛下がお座りになったステージでもあり、少し気恥ずかしい思いも。この後、時代絵巻姿をした元気いっぱいの資料館女性職員さん達を先頭に参加者全員での遺跡めぐりがありました。この講演のことは全く知らず、たまたま訪れ、会場での勧誘にしたがったのですが、偶然に深く感謝しながら、こうして記録に留めます。(画像ネット掲載了解済み)

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2010年05月11日

水晶浜

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 水晶浜は名前の通りのきれいな砂浜で驚いた記憶がある。砂浜の中ほどにある大きな岩を境にダイヤ浜と水晶浜に名前が分かれていると地元の方から。近くの海辺の砂は遊び場にあるような普通の茶色い砂で、ここへ来るまでそれが当たり前と思っていた。白砂青松とはこういった風景のことでしょう。若者のグループが何か遊びに興じている。砂浜を見るときっとカップルが描いたのだろう、目立つハートマークが残っていて、もう読めないが何か名前のような字も見えほほ笑ましい。手にとった砂を拡大して見れば、花崗岩の石英なのでしょうか、さらさらした白砂。ここは若狭国定公園、日本の水浴場八十八選の看板。向こうに関西電力美浜発電所が見える。まだ行ったことがないので玄関先にある美浜原子力PRセンターまで行く。まだ開館前であったが、出勤してこられた職員の方が親切でパンフレットなど持ち出してくれる。敦賀半島の道路事情や最近の浜のことなどあれこれお聞きし、その後おおいに役に立った。


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2010年05月09日

佐久間大尉生誕地

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 若狭路を走っていると目についた案内板、佐久間大尉の名が。一瞬ではあるが日露戦争時の広瀬中佐と勘違いしたが、神社入り口の碑を見てそうかと思い出す。歴史でいえばまだ近い過去に立派な方達がたくさんおられた。初めて見る碑には「殉難艇長 佐久間大尉生誕地、元帥伯爵東郷平八郎書花押」とある。わたしの近くの花筐公園にある忠魂碑と全く同じ東郷元帥の署名を他で初めて目にした。奥へ歩き行くと、「沈着勇断」と大書された顕彰碑があり、その奥石段の上に墓がある。墓の前で礼拝中の方、御親戚の方だろうかと思い、お聞きすれば、佐久間家と全く関係のない方でご夫婦で山口県からおいでとか。佐久間艇長の第六号潜水艇は山口の沖で沈没、そのご縁でお参りとお聞きする。偶然とはいえ、何か引かれるものを感じ、いろいろお話をお聞きした。その手記に最後まで部下の家族への配慮を求めた人柄は、後の沖縄戦での県民に配慮を求めた司令官に繋がる思いであり評価高きは当然だと思う。帰り地元の高校生から、ここで年一回2つの小学校の5、6年生が参加し勉強会があると聞く、音楽隊の演奏もありそれは盛大とのこと。

佐久間勉艇長
明治四十三年四月十五日山口県新湊沖で呉第一潜水艇隊が潜水操練中 佐久間勉大尉の指揮する第六号潜水艇は機関に故障を生じて遂に沈没したが そのとき艇長は従容として悲壮な遺書を認め乗組員十三名と共に殉職した 艇長享年三十二才

(墓の横に)
呉第一潜水艇隊第六号潜水艇ニ長トシテ明治四十三年四月十五日周防國新港沖ニテ潜水操練中沈没部下十三名ト共ニ殉難ス享年三十二

佐久間艇長の歌
一、
花は散りても香を残し
人は死しても名を残す
あっぱれ佐久間艇長は
日本男児の好亀鑑

一、
これをはじめと部下諸員
少しも乱るヽ様もなく
息絶ゆるまで我が任務
守りし様ぞ知られける

投稿者 sensyu : 22:53 | コメント (0)

2010年05月08日

熊川宿

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 思った以上に長く続く宿場町を歩く。地元の何人もの方からいろんなお話が聞けた。山車のこと、お寺のこと、神社のこと、家並みのことなど興味が尽きない。伊藤忠商事社長の生家、旧逸見勘兵衛家とか古い建物が並ぶ。何度も火事にあっているそうで、一番古い建物で199年経つとか、それでは来年はきり良く200年になります。山車の西陣の絵布は自慢、公民館らしき中も案内していただき他の図柄も見ることができた。寺では戦国大名細川家との繋がりなどご住職から。また別の方に狭いところに神社が2つもあることをお聞きすると、詳しい方が出てこられ、それで松木神社のいわれ、義民という言葉も知った。宿場中ほどでワイワイ女性陣の焼く焼き饅頭、クリーム入りを歩きながら食べることができるのも旅ならでは。

http://www.awatabe.com/fukui/kumagawa/


松木神社

 関ヶ原の戦のあと若狭の領主となった京極高次は小浜湾に臨む雲浜の地に壮大な城を築いた。そのため領内の百姓には年貢の増徴か労役の提供など多くの負担がかけられたが、特にそれまで一俵四斗であった大豆年貢が四斗五升(または五升)入りに増額された。そして、この制度は領主が酒井忠勝になり、天守閣も造られて新しい小浜城が完成しても改められなかった。
 苦しみにあえぐ百姓たちは年貢引き下げの嘆願運動を十数年にわたって繰り返したが、小浜藩では全くこれを聞き入れなかった。捕縛投獄の抑圧にも屈せずあくまで年貢軽減を訴え続けた上中町・新道村庄屋松木庄左衛門は、慶安五年(一六五二年)五月十六日ついに日笠川原で磔の刑に処せられた。
 しかし、悲願は聞き届けられ大豆年貢の引き下げは実現した。時に庄左衛門は、二十八歳の若さであった。
 義民の遺徳を永久にあがめ謝し奉るために、昭和八年ここに松木(まつのき)神社が創建された。

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2010年05月07日

レインボーライン

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 レインボーラインは三方の遊覧船と共に若狭の観光名所。できてまなしのまだ黒いアスファルトの上をワクワクしながら車を走らせた記憶も遠い遠い昔。山頂公園はとてもにぎやかになっている。それにしても県外ナンバーがずらりと並ぶ様はさすが観光若狭。連休は渋滞もあって夏の海水浴シーズンかと見間違う。駐車場の係りの人達の誘導が上手。パノラマ撮影は山頂より一歩下の駐車場のほうが見晴らしがよいと思ったが、逆光になるので難しい。

http://www.awatabe.com/fukui/rainbow/index.htm

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2010年05月02日

紫式部公園

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 白や紫の藤が咲き出し、ふじまつりがあるそう。この公園は、たまたますごい雪が舞う中、冬にも一度来ている。寝殿造りのある池は豪華、朱塗りの橋も絵になる。武生は昔から教育の匂いが強い町、そんなところが公園の作り随所に感じられる。遠くを眺める紫式部のふくよかなお顔が印象的。


 聡明で身も心も美しい女性像として創造された金色の紫式部像・・・で始まる碑文、『石の心、樹の心を尋ねて甦る「作庭記」の世界』
庭園は「作庭記」の真髄を今に甦らせた現代の名園である・・・と格調も高く締めくくられている。

投稿者 sensyu : 23:41 | コメント (0)

2010年05月01日

グリーンセンター

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 丸岡にある県総合グリーンセンターへ初めて。パークへ入るとユニークな建物、お聞きすればこの建物は子供達600人もの収容力があり、食事や休憩などに使うらしい。大きな温室もあり見ごたえがある。桜がきれいで名札を見れば、松月(しょうげつ)とか、思い川桜などすてきな名前が。木の名前を当てるクイズとか工夫されている。今は花水木やドウダンツツジなどが目立ち、他にも憶え切れない種類が生育されている。池ではイカダ遊びの姿、凧揚げに興じる家族。きれいな池もいくつか配置されて水面に映る景色もいい。たくさんの花木を見ながら、以前地元フラワーセールで花のことばかり考えていた一時期があったことなど懐かしく思い出す。

人工の滝や清流の流れ・動画(25/sec)

投稿者 sensyu : 00:03 | コメント (0)

2010年04月30日

村国山からの夜景

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 若い頃途中までは何度か、ちょっと前になるが仕事である方の別荘へ行ったことがあるくらい。これまで頂上に展望台があると聞いてはいたが、そこまで登ったことはない。頂上展望台までは車でも思った以上の距離を感じた。途中に大きな池、夫婦池というらしい。何ヶ所か踊り場もあるので、車とすれ違っても何とかなりそう。確か芦山公園と言っていた。入り口が初めての方には分かり辛いかも知れない、そういうわたしも記憶を無くし登り口を見つけるのに一度失敗。頂上からの眺めはすばらしく、これはいくら口で言っても伝わらない。偶然新潟からおいでの方達と話がはずむ。暗くなってくるにしたがって宝石を散りばめたような夜景が現れてくる。アベックの方達も何組か、こんな夜景を前にロマンチックですね。

http://www.awatabe.com/fukui/echizen/murakuni.htm

投稿者 sensyu : 09:40 | コメント (0)

2010年04月23日

西福寺

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 敦賀を走っていると大きな標識に「西福寺」の表示。永平寺ならよく見かけるが、と思いながら案内されるまま。徳川家と浄土宗との繋がりで、西福寺二十一世和尚は福井藩主結城秀康の庶子、松平忠直の異母弟と聞けば、歴史の匂い濃く、越の秀麗と言われるも頷ける。白狐の伝説などに色どられた勅願寺でもある。鐘楼堂は見るからに風格あり、西福寺書院庭園は国指定の名勝。庭を拝観しようと大玄関を入るも拝観料はお椀がおいてあるだけの善意任せであり意外。極楽浄土を現した庭と言われているそうだ。皇太子殿下行啓時の大きなお写真が飾られていた。印象に残ったのは境内の大きな椎の木、西福寺のスダジイと呼ばれているそうだが、この木何の木にあるような風格。いわれも村人達を飢饉から救う為と聞けば一段と大きく見える。

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2010年04月22日

柳の滝

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 子供の時遠足で来たような気もするのだが、すっかり記憶から消えて、それがここ服間、柳の滝。今立音頭にも歌われている。[ハアー 私や今立/私や今立/柳(やなぎ)の滝よ/遠く見下ろす/三国(みくに)の海を/暑さ忘れる布の滝~♪] 布の滝が見れるとやってきました。入り口駐車場備え付けの箱にパンフが、それによると、下から不動滝・お釜滝・布滝・窓滝。夫婦滝と大小5つの滝がある。不動滝では佐々木小次郎が剣の修行をしたそうだ。途中小雨となり、布滝まで行って引き返したが、想像以上にすばらしい滝を見ることができ大変感動した。早朝にもかかわらず、既においでのカメラマンの方とすれ違う。あと、佐々木小次郎繋がりで小次郎公園へ行く。ますます整備され立派な公園になっている。

http://www.awatabe.com/imadate/yanagi/

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2010年04月21日

西山公園ライトアップ

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 鯖江西山公園の夜桜はライトアップされて綺麗。広々した広場も気持ちよい。何日か前、福井からの帰りに寄ってみた。噴水も初めて見たが刻々といろんな形に変化するのでおもしろい。桜と噴水のライトアップは大変豪華。昔を知っているだけに、ほんとに立派な公園になったと思う。

噴水の動画 (25/sec)

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2010年04月20日

水芭蕉の郷

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 一週間も経つだろうか、福井からの帰り、小高い山の頂が白い。好奇心も手伝って近くへ車を寄せると、どうやら桜。案内板に東郷槙山城跡とある。まあまあ近くにいながら初めて知った。駐車場のイラストもあり早速登ってみることに。朝倉氏から柴田勝家を経て、天正12年(1584年)長谷川秀一が城主とある。朝鮮(文禄の役)で陣没後、丹羽長秀の次男長昌が城主で15万石を領したとある。頂上の天守跡には長谷川秀一の賛碑と忠魂碑があり、ここから福井市が一望できる。隣には公園もあり、若者達がお花見の準備をしていた。もう少し下に水芭蕉がと聞いて行ってみる。規模は決して大きくはないが、水芭蕉の純白と水音に癒された。ここは福井の知られざる隠れた穴場と彼等が言っていたから、知らなかったのも許される。

http://www.awatabe.com/fukui/togo/


投稿者 sensyu : 19:46 | コメント (0)